去年の2月だったとおもう。ロシア・ウクライナ戦争が始まって1年が過ぎて、文学に何ができるか? というシンポジウムの司会進行を務めた。結論で、ロシア・ウクライナ戦争は、物語の戦争でもあると述べた。
ロシアは、ファシストの支配から同胞を救う解放者の物語。ウクライナは、祖国への侵略者から同胞を守る英雄の物語。どちらもそれぞれの正義をかざして、この物語を駆動力として戦争をたたかっている。
文学は、このふたつの物語を解体できるカウンターストーリーを物語ることができるか? 文学を生業とする者として、それをかんがえてゆきたい――このシンポジウムの内容は、『すばる』(集英社)に掲載されたので、興味のある人はそちらをご覧いただきたい。
さて、そのとき、僕はロシアとウクライナの駆動力になっている物語に対抗するには、もっと大きな物語が必要だと考えていた。その後、考えをあらためた。必要なのは、ひとりひとりの個人に根差した「小さな物語」なのだ、と。
それはどのように物語で、どのように語ることができるのか? 僕なりに模索していたら、『戦争語彙集』と出会った。読んでみて、僕と同じことを考えた文学者がいることを知った。
作者のオスタップ・スリヴィンスキ―は、ウクライナの、詩人、翻訳家、文芸評論家で、ウクライナ・カトリック大学で、中東欧文学・比較文学を教えている。
戦争が始まったころ、ボランティアとして避難民をケアし、彼らひとりひとりから去らなければならなかった故郷の景色や大切な思い出を聴き取って、夜になると、自宅で語られた言葉を記録していた。
避難民のほとんどは、女性、子供、年配者で、犬や猫などの動物もたくさんいた。オスタップは、コーヒー、紅茶、ココアなど温かい飲み物と菓子を配った。
温かい飲み物を飲んで甘いものを食べると人々は気分がよくなります。(中略)そうすると、ストーリーを共有してくれたり、話しかけてくれたりするようになります。(中略)一番大切なのは、個々のストーリーと、一人ひとりの個人が結びついていることだと思います。全体の状況は私にとっては、ほとんどの場合、存在しません
それは、このような物語だ。
ボフダナ キーウ在住、リヴィウ滞在中
昨日クラマトルスクからものすごい数の人がやってきました。列車が次々と到着し、乗客は食事をしたり、雑談をしたりしにこちらへ向かってきました。わたしは苦手だけれど、お約束の朝食であるミルクがゆもこしらえていましたし、コーヒーを切らしそうだから代わりにココアを作ろうね、と話し合っていました。大人は恥ずかしくて認めたがらないことがあるけれど、ほんとうは彼らもココアが好きなんですね。(中略)。
それが今日、敵軍がクラマトルスク駅を爆撃しているのです。わたしは頭から打ち消すことができません――三〇名を超える人たちがもうコーヒーを飲んでくれないし、お茶を催促してこないし、自分の子どものストライプの包装のチョコレート菓子を差し出すこともない、という事実を。(中略)彼らはこちらへ向かっていたのだし、わたしたちも人数分のココアを用意していたのに。
オレーナ ブチャ在住
染料の一〇日目にブチャから逃れるための人道回廊を設けるという発表がありました。わたしたちはすべてをうっちゃって、急いで荷造りをして出かけました。バスは一時間後、市役所の前から出ると言われたから、ほとんど走らんばかりに急ぎ足で。自分たちの前を歩いている赤いパンツを穿いた女性には見覚えがありました。三度も町から脱出を試みたのですが、そのつど、ロシア軍に引きかえさせられていたのです。上等そうな猫のキャリーバッグを抱えたおばあさんの腕をつかみ、前へ進もうとしていました。何ごとかを説得しようとしている様子でした。
「その猫がどれだけ重いか分かります? いっしょにはとても引っ張っていけないのよ。わたし、いざとなったら猫もあなたも放り出して逃げるからね。けど、あなた一人だったら何とかバスの乗り口までたどり着けると思うの」
おばあさんは、バッグをぎゅっと抱え込んだまま、ずっと泣きじゃくっていました。ところが団地を出ようかというところで足を止め、芝生の上にバッグをそっと置きました。立派な猫はおそるおそる辺りを見回し、途方に暮れていました。いっそう激しくなくおばあさんを、赤いパンツの女性はぐいぐい引っ張っていきました。(後略)
これらの言葉についてオスタップは語る。
戦争という経験をした時、全ての言葉は比喩的意味を失ったと思います。つまり、今は美しい比喩の下に隠れている場合ではないのです。(中略)今、言葉そのもの、裸の言葉こそが、私の経験を伝えるもっとも強力な道具かも知れません
ウクライナへ飛んで、『戦争語彙集』を翻訳したロバート・キャンベルは、このオスタップの言葉を、「むき出しの言葉」という。
世辞も考察も寓意も削ぎ落されてこそ、当事者を、そして当事者ではない我々を動かし、救う力を育むことができるように思えました
そして、そのような言葉で語られた小さな物語が力を持つ。ロバート・キャンベルは語る。
巨大な「悪」を前にして、ひとりの人間、一個人は無力な存在かも知れません。それでも一つ一つはささやかな「断片」であっても、ひとり一人が存在をかけて、巨大なものを言葉で切り取った「断片」を積み重ねていくことができるならば、いつの日か、その「悪」を押し留めるような抑止力になるのではないか、という微かな希望を抱いたのでした
彼の言葉は、多くの文学者の気持ちを代弁してもいる。小説家や詩人を名乗る者は、誰もがそういう言葉を紡ぎたいと考える。戦争という大きく強力な物理的暴力のカウンターとなるのは、そうあって欲しいという願いも込めて、もっとも無力におもえる言葉であり、小さな物語なのだといいたい。
『戦争語彙集』の半分は、ロバート・キャンベルのウクライナ訪問記だ。戦地を歩いて、作者のオスタップに取材し、ストーリーを寄せた人物に会って話を聴く。このルポルタージュが、『戦争語彙集』という小さな物語のアンソロジーのすぐれた解説となっている。
『戦争語彙集』は、戦地の人々のストーリーだけでも成立するが、訳者の文章によって、より深く読むことができる。日本語版の『戦争語彙集』は、オスタップ・スリヴィンスキーとロバート・キャンベルのコラボレーションともいえるだろう。
戦争とは何か。戦地の人々がどのように生きているか――それを知るには、ぜひ、この本を手に取ってもらいたい。
お勧めの本:
『戦争語彙集』(オスタップ・スリヴィンスキー著/ロバート・キャンベル著、訳/岩波書店)