久し振りに痛快な小説を読んだ。帯のコピーに「一気読み必至」とあるけれど、ほんとうに一気読みをした。まあ、長さが手頃だということもある。大長篇ならいくらおもしろくてもそうはいかない。
『パッキパキ北京』――作者の綿矢りささんは顔見知りである。だからといって、大甘の評をかくつもりはない。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公は、小説家との関係は、作品を読んでおもしろかったら、と感想を電話できるようだといい、というようなことを言っていた。
僕と綿矢さんは、そういう親しい関係ではないが、とにかく顔見知りだ(これは自慢です)。日本文藝家協会という物書きの団体があって、僕は常務理事をしている。文壇の大家だからではない。そういう役回りがめぐってくる年齢なのだ。
綿矢さんは理事だ。だから、月に一度の理事会で顔を合わせる。会合が終わると、食事が出るので、同じテーブルで食べる。そのとき、たまに言葉を交わす。『パッキパキ北京』を読んだときは、主人公のキャラクターが良かったですよ、あれは綿矢さんですよね、と訊いたら、似たような経験をしているので……と答えがかえった。
主人公の菖蒲は、おそらくアラサーとおもわれる世代。銀ホス(銀座のホステス)をしていたときに、20歳より歳の離れたおじさんと出会って結婚した。夫は海外勤務が多くて、いまも中国に赴任中。
その夫から中国で働くようになって3年になるけれども、こちらの生活に慣れることができない。適応障害かも知れない。このままでは鬱になるから、こっちへ来て欲しいと連絡がある。
菖蒲はこのSOSにこたえなければ離婚されるかも。そうなると、食い扶持がなくなる、と愛犬のペイペイを伴って北京へ飛んだ。夫は彼女と会って、普通の状態を取り戻しているように見えた。
翌日から菖蒲の北京を堪能する日々が始まる。
新しい外国に来た興奮と、今のコロナの難しい時期に北京に来る外国人なんてそうそういないだろうっていう、レアピープルの優越感が脳天にピリピリ突き刺さって強炭酸の刺激。クゥーッ、来たァ! 隔離で閉じこもってた分のエネルギー使うときが来たぁァ!
あとはこの勢いそのままの怒涛の日々が始まる。
夫の秘書・田中さんにアテンドしてもらって、まずは、高級なデザイナーズブランドの店が並ぶショッピング街に出かける。このころ北京はコロナ禍の制限がようやく緩和されつつあった。シャネルの店には行列ができている。買ったのはロエベのコート。
ただ、北京の冬はとても寒くて、たいていの人はダウンコートとスニーカーだ。田中さんに淘宝(タオバオ)という中国最大のネット通販を教えてもらって手に入れた。
そのうち田中さんが忙しくなって、ひとりで地下鉄に乗って出かける。中国人の男性と女性、日本人の男性と女性は、髪型が違うと知った。中国人の男性は側頭部を刈り上げた角刈り。女性は背中の中央あたりまでのロングヘア。
街に出ると、自転車とスクーターを合体させたような乗り物がうじゃうじゃ走っている。菖蒲はこの乗り物を自転ターと名づけた。免許も要らないし、二人乗りも認められているので便利だから、みな乗っているようだ。
街を観察しているうちに分かったことがある。「北京は故宮を中心に同心円状に環状線が走っていて、内側に行けば行くほど豊か、みたいなヒエラルキー」があること。菖蒲たちの住居はそれほど外側ではないが、中心に近いわけではないので妙な劣等感をおぼえる。
夫は北京に馴染まず会社と家を往復するばかり。菖蒲はすでに地元の大学生カップルと友達になって、いっしょに遊んでいる。彼らは日本文学を学んでいるようなので、書店へ行ったり、凍った湖で座るスケートをしたり。
妻の行動力にあきれた夫に、菖蒲は独自のコロナ論を説く。
コロナが始まってからあなたは仕事以外はほとんど人に会わなくて、体調くずして青い顔してるけど、この三年間幸せだった? 私は確かにコロナには二回感染したけど、とっても充実した日々を過ごしてた。思い出もいっぱい、アクティブに過ごして少しも後悔なんかしてない
夫が菖蒲の考えに同意しかけたとき、二人はコロナに感染した。菖蒲は謎の柑橘類を一個丸ごと頬張って果汁を吸収するやり方を考案し、翌日から回復してゆくが、夫は40度超えの高熱を発してフラフラ。それでもやがて危機は脱した。
さて、中国と言えば、食。菖蒲は、「ナマコから、ザリガニ、豚やトリのモツ、鴨の首、鴨の舌、鴨の血を固めたもの」など、珍しい料理を一通り食べたが、いちばん気に入ったのは、アヒルの脳。
火を通した手の親指の爪ぐらいの大きさになった脳は蟹味噌に似た、しかし蟹味噌より濃厚な味が詰まっていて美味しかった
このあたりの食レポは、なかなか読み応えがある。日本ではお目にかかれない食を知ることができる。中国の食は深い。
ただ、この小説は北京のガイドブックではなく、小説なので、しっかり文学している。夫が阿Qの「精神勝利法」を教えたら(無力な庶民の慰めとして教えるのだけど)、菖蒲はひどく気に入る。
自他共にどうやっても認めざるを得ないほど社会の底辺に属していて、毎日イヤなことや辛いことがひっきりなしに起こってても、そいつがニヤニヤしながら「おれは敵などいない、全知全能の神だ」と心から言いきれるなら、こいつはもう、完全に勝利している、一番偉く、一番進化した、一番コスパの良い人類だ
菖蒲が春節を遊び尽くしたころ、夫が提案する。このままずっと北京にいて欲しい。そして、君との子供が欲しい、と。彼女は、自分がいちばん好きだから、産んだ子供がかわいそうだとおもう。しかし夫は、提案を受け入れないなら、と離婚をほのめかす。
さあ、どうする菖蒲。
あとは読んでのお楽しみ。
とにかく勢いがすごい。僕は漱石の『坊っちゃん』を思い出した。
お勧めの本:
『パッキパキ北京』(綿矢りさ著/集英社)