『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第43回 正修止観章③

 前回示した、十境十乗観法の説かれる「2.8. 依章解釈」までの科文を再び示す。

1.  結前生後し、人・法の得失を明かす
1.1. 得を明かす
1.2. 失を明かす
2.  広く解す
2.1. 開章
2.2. 生起を明かす
2.3. 位を判ず
2.4. 隠顕を判ず
2.5. 遠近を判ず
2.6. 互発を明かす
2.7. 章安尊者の私料簡
2.8. 依章解釈

 
 前回は「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」の段を説明したので、今回は、「広く解す」の段を説明する。

[3]「2. 広く解す」①

(1)開章

 この段では、まず「2.1. 開章」において、十境の名を次のように提示する。

 止観を開いて十と為す。一に陰・界・入、二に煩悩、三に病患(びょうげん)、四に業相(ごっそう)、五に魔事、六に禅定、七に諸見、八に増上慢、九に二乗、十に菩薩なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、516頁)

 「境」とは、観察の対象界を意味する。第一の対象界である「陰・界・入」は、五陰(ごおん)・十八界・十二入のことである。これらは、初期仏教の時代から、仏教が自己を含むすべての存在を分類した概念である。もちろん仏教は自然界を対象とする自然科学ではないので、仏教の存在論といっても、あくまで迷える自己を中心とし、その自己から知覚・感覚する対象としてのすべての存在を捉えている。
 五陰(新訳では五蘊)は、個人存在を構成する五つの要素で、色(いろ形あるもの。視覚の対象。身体)・受(感受作用)・想(表象作用)・行(受・想・識以外の精神作用で、意志作用を主とする)・識(認識・判断作用)のあつまりのことである。
 十二入(十二処)は、自己を六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六種の感覚・知覚機能)とし、六根の知覚・感覚する対象を六境(色・声・香・味・触・法)とする。前者を六内入といい、後者を六外入といい、合わせて十二入という。
 十八界は、六根と六境に加えて、六根と六境の接触によって生じる眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六種の認識である六識を加えたものである。
 その他の九境については、簡単に言えば、煩悩、病気、過去の業の様相、魔の仕業(しわざ)、禅定、諸見(誤った思想的見解)、増上慢(まだ悟っていないのに悟ったと思い込む慢心)、二乗(声聞・縁覚の境地)、菩薩の境地といった意味である。
 十境はいずれも修行者自身のさまざまなあり方にほかならない(※1)が、修行者が真実の世界(法界、実相)を観察することを妨げる働きを持っている。修行者はまさにこれらの対象界を観察することによって、それらがそのまま真実の世界であることを体得・洞察するのである。この体得・洞察が摩訶止観の目的である。たとえば、菩薩という第十番目の対象界でさえも、成仏するという立場から見れば、止観の実修を妨げる働きを持ち得るので、第十境として取りあげられるのである。さすがに、この菩薩境は、蔵教の菩薩、通教の菩薩、別教の教道の菩薩を意味し、別教証道の菩薩と円教の菩薩は含まれない(※2)

(2)生起を明かす①

 この段は、十境の生起、つまり次第順序を説明している。

①陰・界・入境の順序

 まず、十境のなかで、五陰が最初に取りあげられている理由は何であろうか。これについて、『摩訶止観』には、次のように述べられている。

 陰の初めに在るは、二義あり。一に現前すればなり。二に経に依ればなり。『大品』に云わく、「声聞の人は、四念処に依って道を行ず。菩薩は初めに色を観じ、乃ち一切種智に至る」と。章章皆な爾り。故に経に違わず。又た、行人は身を受くるに、誰に陰・入の重担(じゅうたん)現前せざるや。是の故に初めに観ず。後に異相を発すれば、別に次と為すのみ。(『摩訶止観』(Ⅱ)、516頁)

 ここには二つの理由が述べられている。五陰が目の当たり存在していることと経典に基づいていることという理由である。経典に基づいていることについては、声聞は身・受・心・法の四種の対象に対して、それぞれ不浄・苦・無常・無我であると観察する四念処を用い、菩薩は最初に色(いろ形あるもの)を観察して、一切種智(仏の智慧)に到達する、という『大品般若経』(※3)を引用して、経典に背いていないことを指摘している。五陰は、色・受・想・行・識であるので、四念処の身は色陰に、受は受陰にそれぞれ対応する。心は識陰に対応し、広く解釈すれば想陰と行陰も含むかもしれない。法は身・心・受を含まない、存在するものを広く指すので、色陰と意味が通じる面があると考えられる。要するに、最初に五陰を取りあげることは、『大品般若経』の説と合致していることを指摘したのである。
 次に、五陰が目の当たり存在していることについては、修行者がこの世に生まれて身を受ける場合、すべての人に五陰・十二入という重い荷物が目の当たり存在していることを指摘している。つまり、陰・入・界は他の九境と異なり、我々凡夫にとって常に現前しているから、いつも観察の対象とすることができることを指摘しているのである。二つの理由のなかでは、五陰が目の当たり存在しているという理由の方が本質的であると思われる。このような理由で、陰・入・界は十境の第一に位置づけられ、最初の観察の対象とされるのである。
 さらに、引用文の末尾に、「後に異相を発すれば、別に次と為すのみ」とあるように、後に五陰・十二入と異なる、他の九種の対象界の様相が生じれば、一つひとつの対象界を個別に観察の対象として順番に取りあげるだけであると述べている。
 以下、九境の生起する次第順序が簡潔に説明される。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『摩訶止観』巻第五下、「此の十境は、通じて能く覆障(ふくしょう)す」(『摩訶止観』(Ⅱ)、516頁)を参照。
※2 同上、「若し本願を憶するが故に空に堕せずば、諸の方便道の菩薩の境界は即ち起こるなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、520頁)を参照。四教の菩薩を方便道と真実道とに分け、蔵教の菩薩、通教の菩薩、別教の教道の菩薩は方便道で、別教の証道の菩薩と円教の菩薩は真実道であるとされる。
※3 『大品般若経』の注釈書である『大智度論』巻第三十六、「十八空・四念処、乃至大慈・大悲・一切種智は、若しは相応、若しは不相応を見ず。問うて曰わく、是れ菩薩にして、声聞・辟支仏に非ず。云何んが三十七品有るや。未だ仏道を得ず。云何んが十力・四無所畏有るや。答えて曰わく、是の菩薩は声聞・辟支仏に非ずと雖も、亦た声聞・辟支仏の法を観ず。声聞・辟支仏道を以て、衆生を度せんと欲するが故なり」(大正25、328中19~25)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。