児童虐待を受け続けた人間が見つけ出す光とは
中村文則(なかむら・ふみのり)著/第133回芥川賞受賞作(2005年上半期)
命に対する肯定感
2度の芥川賞候補(128回「銃」、129回「遮光」)を経て、第133回芥川賞を受賞した当時27歳の中村文則。「土の中の子供」は、約234枚の作品で『新潮』に掲載されたもの。
主題は暴力。親に捨てられ、孤児として引き取った養父母から、虐待の限りを尽くされ育ってきた主人公の「私」。成人したあとも、あえて自ら暴力に晒されるような生活を送る。生と死の境の中で、なぜ自分は被暴力の中へと突き進んでいくのか、自問自答しながら物語は進んでいく。
現在の物語の中に、幼少期の壮絶な体験を入れ込んでいくのだが、初めは表層的なエピソードから始まって、次第に核心的なエピソードが明かされていき、主人公が抱えてきたものの深刻さが姿を現してくる。
精神科医からは、過去のトラウマによって破滅願望があるのだという診断結果を下されていたが、それに違和感を持っていた主人公は、自分が求めているものは何なのかを執拗に自問自答しながら物語は進んでいく。重く息苦しい物語の中で最後に仄かな明るさが遠くに見えるのだが、それは、人間はどんな状況にあっても困難を克服しようとする意思があるということを暗示するものだった。どん底にあっても、最後に得ることのできた命に対する肯定感には、読み終わった後、少し胸が震えた。
本作品を一番推していた黒井千治は、こう評価。
親に捨てられ孤児として虐待されつつ育った主人公の体験をトラウマとして捉える意見があったが、そうではあるまい。ここに見られるのは原因と結果との単なる対応ではなく、より意志的な、過去の確認と現在の模索の営為ではなかろうか。それが仄かな明るみを生み出して作品が結ばれるところに共感する。骨格のしっかりとした、力のこもった作品が芥川賞を受賞する意味は小さくない
暴力が氾濫する中で暴力を描くむつかしさ
ところが、本作品を推したのは黒井千治くらいで、他は手厳しい意見の方が多かった。さまざまな角度からの指摘があったが、最も多かったのは、暴力という古今東西あまりにも普遍的な題材を扱ったことへの疑問である。もちろん扱ったこと自体に疑問が投げかけられているわけではない。それだけ大きな題材を扱うには、それ相当の覚悟と力がなければ描ききれないというのである。
石原慎太郎はこう言う。
暴力という、人間性を否み常識を否定してかかる主題は、いつの時代にも小説にとって潜在あるいは顕在した重要な主題だが、今日のようにその種の出来事が反復氾濫する時代にそれを正面から捉えてかかるのは、読者側の社会人としての感性がそうした主題に対してむしろ鈍磨されている故に極めて難しい作業となるに違いない
河野多惠子はこう述べる。
中村文則さんは今回の候補作でも暴力を、今度はネガティブの象で書いているが、非常に難しいことであるにしても、人間の内部に確実に触れるには至っていない
宮本輝はこうだ。
幼児期に養父母によってひどい虐待を受けつづけた過去を持つ青年の内面に筆が届いているとは思えなかった
さらに詳細に指摘しているのは村上龍だった。
幼児虐待やトラウマ、それにPTSDという言葉は大手メディアのニュースやワイドショーなどによって一般化・陳腐化され、すでに手垢にまみれている。虐待を受けた人の現実をリアルに描くのは簡単ではない。(中略)他人には理解しがたいものであり、本人も理解できていない場合も多い。そうした人を主人公にして一人称で小説を書くのは、読者との距離感を意図的に崩した緻密で実験的な文体が必要になるが、誠実な小説家は、そんなことは不可能だと思わなければならない
特殊な題材ではなくても小説たりえる
作者が初めて芥川賞候補になった「銃」では非日常の象徴である銃を持った青年を描き、「遮光」では女の遺体から切り取った小指を題材とし、今回は激しい虐待と暴力が題材だ。こうした題材の選び方について触れている宮本輝の選評が興味深い。
中村氏は、何かのトラウマ、もしくは特殊な状況下に置かれた主人公を設定しなければ小説を構築できないのではないかと危惧してしまう
小説は、奇抜な非日常の中だけではなく、ありふれた日常の中からも掬い上げることができる。芥川賞を受賞した「蛍川」をはじめとして、宮本輝の作品は、さほど特殊ではない市井の人たちの生活の中から文学たり得るものを掬い上げて、見事な美しい作品として届けてくれる。そこに必要なのは、当たり前の生活の中にある当たり前ではないものを見つけ出す、鋭い、温かな目線なのだ。
「芥川賞を読む」:
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