民藝を知ったのは、普通の小説を書き始めてからだったとおもう。若いころの僕は古美術の類にほとんど興味がないので、その方面にはうとかった。同時代のアートには、大いに関心を持っていた。僕の10代のころのアイドルは、マルセル・デュシャンだった。
デュシャン以降のアートについても、アメリカのポップアート、ヨーロッパのアバンギャルドと、広く目配りをしていた。僕は、小説を書いていたが、ジャンルは違っても、同時代の表現者たちが、どのような仕事をしているのかは、知っておかなければならいとおもったし、実際に刺激も受けた。
だから、いちばん最初に仕上がった小説は、大判の写真を額装にして、詩のような文章がついていた。つてを頼ってある雑誌の編集者に見せたところ、時代から一歩踏み出すと、人はついて来られない、踏み出すのは半歩ぐらいで、ちょうどいいのだ、といわれた。
確かに、この小説は誰にも認められなかった。でも、僕自身は満足だった。新しい小説を書いたと胸を張っていた。一歩どころか、二歩も、三歩も、踏み出してやる、と意気込んでみせた。
僕は、自分なりの文学理論を構築して、それに基づいて作品作りをしたのだ。けれど、その編集者は苦笑いして、それもたいしたものではないよ、といった。僕はジェームズ・ジョイスが、家族の臨終の際、祈ってくれ、と願われて、無神論者だからできない、と拒んだ例を挙げた。
それなら好きにすればいいのでは、と返されて、僕は彼に礼をいって去った。本当はさびしかった。理解者がいないのは辛い。ひとりでもいいから、おもしろい、といってくれる人がいれば、僕はどんどん新しい小説を書き続けただろう。
家に帰って、待てよ、とおもった。僕が憧れていたデュシャンや、アメリカのポップアートや、ヨーロッパのアバンギャルドは、そろそろ古びかけてはいないか。もちろん、彼らは独自の世界を築いている。僕にとっては、いろいろ刺激を与えてくれた。
ところが、その刺激がなくなりつつあった。写真に文章をつけた小説は、もういいかな、とおもった。それよりも物語が書きたい。編集者にいわれたからではない。自分からそうおもったのだから、これでいいのだ。
僕は廃棄物処理場に捨てられていた19世紀のリアリズムの小説を拾って来て、その形式で物語を書き始めた。同時に、これまであまり顧みることのなかった古典的な文学・芸術を読んだり観たりするようになった。
たしかそのなかに、柳宗悦(やなぎ・むねよし)の本があって、彼の提唱する民藝の作品があった。僕はあいかわらず工芸品のようなものには関心をひかれなかった。柳の芸術思想に興味を持った。小説家としてデビューしたあと、彼の「心偈(こころうた)」を知った。これは、言葉の民藝ではないかとおもった。
柳と同じく民藝運動を推進した河井寛次郎の残した言葉もそうだ。僕の手元には、彼の『いのちの窓』という本がある。ここには短いけれども、味わい深い言葉がつまっている。たとえば――
はだかはたらく 仕事すつぱだか
仕事をすることの本質がある。働くことは裸をさらすことだ。いくら装っても、仕事に裸にされる。
誰が動いて居るのだ これこの手
民藝は無名の人々の手わざから生まれる。だから、独自性という考え方がない。ちょっと違うが、小説を書いているときにも、筆が乗ってくると自分ではない誰かが書いているような感じのすることがある。無意識が働いているのだ。
「美の正體」
ありとあらゆる物と事のとの中から
見付け出した喜
美とは喜びである。人は美を見出すと、心を躍らせる。
何もない――見ればある
この世界には、見ようとしない者には、見えないものがたくさんある。そういう者は、眼を開いていても、なにも見ていないのと同じだ。
新しい自分が見たいのだ――仕事する
表現者ならわかる。
ひとりの仕事でありながら
ひとりの仕事でない仕事
同じ時代を生きる他者と協同で働くということでもあるし、伝統のうちに生きている先人=死者と働くことでもある。
暮らしが仕事 仕事が暮らし
うーん、こういう境地になってみたい。
美を追はない仕事
仕事の後から追つて來る美
作為はいけないということだろうか。柳の言う「用」を求めてゆけば、美はそこに現われる。
言葉の民藝は、詩であると同時に人口に膾炙した諺にも似ている。僕は、いまこういう小説を書きたいとおもっている。
オススメの本:
『いのちの窓』(河井寛次郎著/東方出版)