在日バッシングと生活保護バッシングに通底するもの
在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチ(憎悪表現)をくり返す右派系市民グループの台頭と、いわゆる「生活保護バッシング」の激化が、ほぼ時を同じくして起きた。このことは、偶然とは思えない。2つの動きの担い手たちが人員的にどれくらい重なっているかはわからないが、心情的には同根だと思うからだ。
2つの動きに通底するのは、「私たちが不幸(もしくは不遇)なのは、本来、私たちが享受すべき権利を、誰かが不当に奪っているからだ」という思考スタイルであろう。
ヨーロッパ各国の場合、移民・外国人労働者排斥や人種差別運動の背景には、若年層失業率の高まりなどの貧困問題がある。いっぽう、日本の場合はヨーロッパ各国に比べれば失業率も低く、貧困との関係は直接的ではない。それでも、2000年代以降顕著になった日本の格差社会化など、おもに若い世代が陥っている経済的苦境が背景にあることは間違いあるまい。
不満が溜まれば、「誰かのせい」にしてガス抜きをしたくなる。これはもう、人間の本能のようなものだ。しかし、在日バッシングと生活保護バッシングについていえば、攻撃の矛先を間違えている気がしてならない。
「『在日特権』なるものは一種の都市伝説に過ぎない」(『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』安田浩一著/講談社刊)との指摘が、複数の論者からなされている。生活保護についても、糾弾されてしかるべき存在である不正受給者は、「金額ベースで受給者全体の0.4%弱という数字で推移している」(『間違いだらけの生活保護バッシング―Q&Aでわかる 生活保護の誤解と利用者の実像―』生活保護問題対策全国会議編/明石書店刊)にすぎない。かりに不正受給がゼロになったとしても、大勢に影響がない程度の微々たる変化しか生じないのである。
強者から弱者へと矛先が変わった理由は?
このような、「私たちが不幸なのは、私たちが享受すべき権利を誰かが奪っているからだ」という思考スタイルは、昔からあった。
しかし、昔――1970年代くらいまで――の「誰か」は、「権力者」「エスタブリッシュメント」「巨大資本」などの「強者」だったように思う。「我々が不幸なのは、権力が我々から不当な搾取をつづけているからである」というふうに……。それがいつの間にか、強者から弱者へと攻撃対象が変わってきた。この〝トレンド変化〟はたいへん興味深い。
強者から弱者へと、矛先が変わったのはなぜか?
その謎解きのヒントになりそうなのが、教育学者の本田由紀(東京大学教授)が提唱した「ハイパー・メリトクラシー(超業績主義)」の概念である。もともとあった「メリトクラシー(業績主義)」の概念に「ハイパー(超)」という接頭辞を付けた造語だ。
「メリトクラシー」は個人の持つ能力によって地位が決まる社会を指すが、今日の日本では「能力」の意味が変容し、たんなる学力や知識量などではなく、あいまいで計量不可能な、情動に根ざした「能力」が求められるようになった。たとえば、「生きる力」「創造性」「個性」「ネットワーク形成力」などである。そのような「ポスト近代型能力」が要請される社会のことを、本田は「ハイパー・メリトクラシー」と名付けたのである(『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』本田由紀著/NTT出版刊)。
かつての単純なメリトクラシー下では、おもに求められる能力である学力は、努力によって高めることができた。ところが、「『勉強』以外の多様な側面での力が要請されるハイパー・メリトクラシー社会」では、努力が能力の強化に結びつきにくい。「生きる力」「創造性」「個性」などのあいまいな能力を、目に見える形で高められる努力など無きに等しいからだ。
ゆえに、ハイパー・メリトクラシー社会への移行によって、努力のもつ意味が大きく変質してしまった……というのが本田の見立てである。
努力しても社会が要請する能力を高められない時代。少なくとも、努力と能力の相関関係が昔より見えにくくなった時代――そんな時代になったという認識が社会に醸成されれば、若者たちの努力への意欲はおのずと減退していく。そして、努力によって自らの社会的地位を高められないのであれば、〝いまそこにあるパイ〟を奪い合うしかない――人々を弱者バッシングに駆り立てているのは、心の深部にあるそんな認識なのではないか。彼らがそのことを、どこまで自覚しているかは別にして……。それが「強者から弱者へと矛先が変わった」理由だ、というのが私の見立てである。
いずれにせよ、「私が不幸なのは誰かのせい」という思考スタイルで生きるかぎり、けっして幸福にはなれないだろう。