第36回 方便⑦
[3]具五縁について⑤
「衣食具足」について
次に、具五縁の第二「衣食具足(えじきぐそく)」について考察する。まず、衣食について、
第二に衣食具足とは、衣を以て形を蔽(おお)い、醜陋(しゅうる)を遮障(しゃしょう)し、食は以て命を支え、彼の飢瘡(きそう)を塡(ふさ)ぐ。身は安からば、道は隆(さか)んにして、道は隆んならば、則ち本は立つ。形、命、及び道は、此の衣食に頼る、故に云わく、「如来は食し已って、阿耨三菩提を得」と。此れは小縁なりと雖も、能く大事を辦ず。裸にして餒(ひだる)く安からざれば、道法は焉(いずく)んぞ在らん。故に衣食の具足を須(もち)ゆるなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、435~436頁)
と述べている。衣と食を備えることは、衣はそれで身体を覆い隠し、醜く卑しいものを遮り妨げ、食はそれで命を支え、飢えや傷をふさぐ。身が安らかであれば道は隆んとなり、道が隆んとなれば根本が確立する。身体、命、道は、この衣と食に頼っている。衣食を備えることは、小さな条件であるが、大事を実現することができる。裸で飢えて安からでなければ、道法はどうして存在するであろうかと指摘している。衣服は身体を守り、食物は生命を支えるものであり、この衣食によって身体、生命の安全が保たれることによってはじめて、仏道の興隆も可能となることを指摘したものである。
この段は、衣を解釈する段と食を解釈する段の二段に分かれている。順に紹介する。
①正しく衣を釈す
衣の働きは、醜く卑しいものを遮り、寒さ・熱さを遮り、蚊や虻(あぶ)を遮り、身体を飾るものであるが、衣に上・中・下の三種類があるとされる。
雪山(せっせん)の大士(釈迦の前身である雪山童子)は身を深山の谷に隠し、世間に関わらず、草を結んで席とし、鹿皮の衣を着ていた。忍耐の力が成就していたので、温かく厚い衣を必要とせず、世間に遊ばなかったので、身を支え助ける物に煩うこともなかった。これは、衣について上士(上級の者)であるとされる。
十二頭陀行(衣食住にわたる十二項目の規定を守り、質素倹約な生活をすること)を実践する人は、ただ三衣(僧伽梨[そうぎゃり。大衣]、鬱多羅僧[うったらそう。上衣]、安陀衣[あんだえ。中衣]のこと)だけを蓄える。これは、衣について中士であるとされる。
寒さの厳しい国土では、必要に応じて三衣以上の衣を許可されるが、これは、衣について下士であるとされる。
このように、三段階の衣について説明した後に、それぞれに対する観心釈について説明している。
つまり、『大般涅槃経』に出る「大乗の法服」や『法華経』に出る「如来の衣」(柔和忍辱の心を意味する)は、寂滅忍と規定される。この寂滅忍については、「忍」は心を中道に安んずることを意味し、「寂」は二辺(二つの極端)のかまびすしさを離れることを意味し、「滅」は、分段の生死(三界内部の輪廻)と不思議変易(三界外部の輪廻)の生死の二つの生死を超過することを意味すると説明される。
さらに、寂滅忍の心が二辺(二つの極端)の悪を覆うことは、醜さを遮る衣である。五住地惑を除くことは熱を妨げ、無明の見(誤った見解)を破ることは寒さを遮り、生死の動揺がなく、また空乱の意もなく、二つの覚観(心の粗い働きと細かい働き)を捨てることは、蚊や虻を遮ることである。このように、寂滅忍が、熱を妨げ、寒さを遮り、蚊や虻を遮るという衣の働きを持つことを示している。
次に、中士が着用する三衣についての観心釈は、次のように説明されている。三衣とは、空観・仮観・中観の三観である。三諦の上の醜さを覆い、三諦の上の見煩悩・愛煩悩の寒熱を遮り、見思惑・塵沙惑・無明惑の三覚の蚊や虻を退け、三身を荘厳するので三観を衣とすると説明される。それぞれ伏忍・柔順忍・無生寂滅忍の三忍に相当するといわれる。
さらに、空観についていうと、見煩悩を生ずることを寒と名づけ、愛煩悩を生ずることを熱と名づけ、止観を修めて見諦(預流果=見道)の理解を得ることは暖かさであり、見煩悩は生じない。思惟道(修道=一来果・不還果)の理解を得ることは涼しさであり、愛煩悩は生じない。五根に悪がないのは福徳荘厳であり、意地(意根)に悪がないのは智慧荘厳である。他の仮観・中觀の二観についての衣の説明は、理解できるであろうとして、省略されている。
下士の衣は、情況に応じて許可される長衣(三衣以外の規定外の衣をいう)であり、一切の行行(助行であり、正行を助けるもの)であり、助道(覚りを助けること)の法であり、これによって三観を成立させるといわれる。
以上が三段階の衣に対する観心釈である。
②正しく食を釈す
次に、食についても、上中下の三種がある。すなわち、
一に深山に跡を絶ち、人民を去り遠ざかり、但だ甘果・美水・一菜・一果を資(と)るのみ。或いは松柏を餌(くら)いて、以て精気を続(つ)ぐ。雪山の甘い香の藕(はす)等、食し已って心を繋(つな)げ、思惟坐禅して、更に余事無きが如し。是の如き食は、上士なり。
二に阿蘭若(あらんにゃ)の処に、頭陀(ずだ)抖擻(とそう)す。放牧の声を絶す。是れ修道の処なり。分衛(ぶんえ)して自ら資(たす)く。七仏は皆な乞食の法を明かす。『方等』、『般舟』、『法華』は、皆な乞食と云うなり。路径(ろけい)は若し遠くば、分衛は労妨(ろうぼう)す。若し近くば、人物は相い喧(かまびす)し。遠からず近からざるは、食に乞うに便ち易し、是れ中士なり。
三に既に穀を絶ち果を餌うこと能わず、又た頭陀・乞食すること能わざれば、外護の檀越は、食を送りて供養す。亦た受くることを得可し。又た、僧の中の如法の結浄食は、亦た受くることを得可し。下士なり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、440~442頁)
と述べている。深山に入って社会と交渉を断ち、山林の質素な食物を摂取して思惟坐禅に専念する上士と、町や村から遠くもなく近くもない場所(阿蘭若処araṇya)に住して頭陀(dhūtaの音写。抖擻と漢訳される。衣食住に関する貪りを払い除く修行)を行じ、乞食(piṇḍapātaの漢訳。分衛と音写される)する中士と、外護の檀越(dāna-patiの音写語。施主のこと)から食物を施与されたり、僧中食(食事担当僧、すなわち典座の作った食物)を受ける下士とである。
この食についても観心釈がなされている。
『大般涅槃経』に出る「大乗の法食」(※1)とは、如来の法の喜び・禅の悦びである。この法の喜びは、平等の大慧である。法身と智慧の命を増大させて真の解脱を可能にさせる。また、この法の喜び・禅の悦びによって中道の法に体達することができると述べられている。中道の法は、すべての法を備えており、満腹することの意義を持っている。これは深い山の上士が一つの草、一つの果実によって身を助けるのに十分であるようなものであると説明している。
次に、頭陀の乞食は、修行者が事そのままが中道であって、実相の智慧を修めることができなければ、次第の三観によって心を調えて中道に入るべきであるといわれる。次第の観であるので、乞食と名づけ、また中道を見ることを、さらに飽の意義と名づけている。これが中士である。
次に、檀越が阿蘭若処で修行する人に食べ物を送ることについては、善知識で般若を説くことができる者が巧みに分別することにしたがい、聞くにしたがって理解を得て、中道を見る場合は、鈍根ではあるが、食を得ると名づける。
さらに、サンガのなかの結浄の食べ物(清浄なものとして許可された食べ物)は、とりもなおさず禅定の支林(禅定を構成する覚・観・喜・楽・一心[初禅の五支]などの心作用の要素を、樹木が多数並び立つ林にたとえたもの)の功徳を証得し、禅定によって悟りを得ることであると説明されている。
このように、食についても観心釈が施されているのである。以上で、具五縁の第二、衣食具足の説明を終える。
(注釈)
※1 『南本涅槃経』巻第二、哀歎品、「汝諸の比丘よ、下心を以て知足を生ずること勿れ。汝等は今者(いま)、出家を得と雖も、此の大乗に於いて、貪慕を生ぜず。汝諸の比丘よ、身に袈裟・染衣を服することを得と雖も、心は猶お未だ大乗の浄法に染まらず。汝諸の比丘よ、乞食を行じて多処に経歴すと雖も、初め未だ曾て大乗の法食を求めず。汝諸の比丘よ、鬚髪(しゅほつ)を除くと雖も、未だ正法の為めに諸の結使を除く」(大正12、616上26~中2)を参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
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