『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第34回 方便⑤

[3]具五縁について③

(4)懺浄を明かす①

 具五縁の第一「持戒清浄」の四段のうち、第四の懺浄(さんじょう。戒を犯した罪を懺悔して、清浄に戒を持つこと)を明らかにする段落の冒頭には、事戒と理戒を犯すと、止観を妨げて、禅定・智慧を生じないので、どのように懺悔するかが重要であることを指摘し、その後、懺悔して罪を滅する方法について詳しく説いている。懺悔については、事戒を犯した場合の懺悔は事懺(じせん)といわれ、理戒を犯した場合の懺悔は理懺(りせん)といわれる。
 まず、事戒について軽罪を犯した場合は、小乗にも懺法(せんぼう。懺悔して罪が許される方法)があるが、重罪を犯した場合は、仏法の死人というべきものであり、小乗には懺法がなく、大乗だけがその懺悔を許可するといわれる。この場合は四種三昧によると記されている(※1)。これが事懺と呼ばれるものである。
 理戒(観心の持戒)のなかの軽罪・重罪を犯すことは、『摩訶止観』の本文では、理觀が誤っている程度が軽い場合と重い場合に分けて、次のように説明している。

 理観は小しく僻(ひゃく)にして、諦に当たらざるは、此の人の執心は若し薄くば、苟(まこと)に封滞(ふうたい)せず。但だ正観の心を用て、其の見著を破す。慚愧(ざんき)し羞(はじ)有りて、頭を低くして自ら責む。心を策(むちう)ち轍を正しくするに、罪障は消す可く、能く止観を発するなり。見は若し重くば、還って観心の中に於いて懺を修せ。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、412~413頁)

 執心がもし薄ければ、ただ正観の心によって、その誤った見解による執著を破ることが説かれ、誤った見解がもし重ければ、逆に観心のなかにおいて懺法を修めることが説かれている。これらが理懺と呼ばれるものである。
 次に、現在世の重罪は除き易く、過去世の重障は除き難いことが示される。この現在世、過去世の二世の重障を懺悔して四種三昧を行じることが事懺に当たるが、それには、順流の十心を知って自らの過失を明らかに知り、ついで逆流の十心によってこれを対治すべきであると説かれている。この順流の十心と逆流の十心を合わせた二十心が懺悔の根本となる。順番に説明する。

①順流の十心

 順流の十心(十種の生死の流れに順ずること)の第一については、「一に無始自従(よ)り闇識は昏迷にして、煩悩に酔わされ、妄(みだ)りに人我を計す。人我を計するが故に、身見を起こす。身見の故に、妄想顚倒す。顚倒の故に、貪・瞋・癡を起こす。癡の故に広く諸の業を造る。業あれば、則ち生死に流転す」(『摩訶止観』(Ⅱ)、414~415頁)とあり、人我(常住不変の我)→身見(我見・我所見のこと。我見は、我という実体があるとする考え。我所見は、我の所有物であるという考え)→妄想顚倒→貪・瞋・癡→業→生死(輪廻)という連鎖が説かれている。
 第二は、煩悩を備え、悪友に出会い、自己の心を迷わせることである。第三は、煩悩と悪友が善心を消滅させ、善事を消滅させることであり、そのうえ、他者の善に対して、すべて喜ぶことがないことである。第四は、身口意の三業をほしいままにして、すべての悪をなすことである。第五は、悪事は広がらないけれども、悪心はあまねく行きわたることである。第六は、悪心を継続させて、昼夜に断えないことである。第七は、過失を覆い隠し、他人に知られることを望まないことである。第八は、生まれつき愚鈍で、ぶつかりあって、悪道を恐れないことである。第九は、恥ずかしく思うことがないことである。第十は、因果を否定して、一闡提(いっせんだい)となることである。
 以上の結びとして、

 是れ十種の生死の流れに順じて、昏倒して悪を造ると為す。厠(かわや)の虫は厠を楽しみて、覚らず知らず、積集(しゃくじゅ)重累(じゅうるい)して、称計(しょうけ)す可からず、四重、五逆より極まって闡提に至るまで、生死は浩然(こうねん)として際畔(さいはん)無し。(『摩訶止観』(Ⅱ)、416頁)

と述べている。十種の生死輪廻の流れに随順し、目がくらんで倒れて悪を作ることが示されている。あたかも厠の虫が厠を楽しんで、何も知らないままに積み重なって、数え上げることができないほど多数生じることは、四重、五逆から極まって一闡提に至るまで、生死輪廻が広々として果てがないことをたとえてる。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『摩訶止観』巻第四上には、懺悔における禅定の重要性を示す経文を次のように引用している。「『普賢観』に云わく、『端坐して実相を念ぜよ。是れ第一の懺と名づく』と。『妙勝定(みょうしょうじょう)』に云わく、『四重・五逆は、若し禅定を除かば、余は能く救うこと無し』と。『方等』に云わく、『三帰・五戒、乃至、二百五十戒は、是の如く懺悔するに、若し還って生ぜずば、是の処(ことわり)有ること無し』と。『請観音』に云わく、『梵行を破する人は、十悪業を作るも、糞穢(ふんえ)を蕩除(とうじょ)して、還って清浄なることを得』と」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、413~414頁)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。