書評『頭じゃロシアはわからない』――諺を柱にロシアの実像を伝える

ライター
小林芳雄

諺から見える文化の違い

 著者の小林和男氏はNHKでモスクワ支局長を2度務めた経験を持つ。解説主幹などを経て、現在はフリージャーナリストとして活躍している。『エルミタージュの緞帳』(NHK出版)などの著者としても知られているだけでなく、日本とロシアの文化交流にも尽力し、半世紀以上に渡ってロシアを見つめ続けてきた。
 表題は19世紀末のロシア帝国の外交官で詩人のフョードル・チュッチェフの有名な四行詩「頭じゃロシアはわからない/並みの尺度じゃ測れない/その身の丈は特別で/信じることができるだけ」の冒頭から採られたもの。ウクライナ危機以後、諺が好きなロシア人がどんな諺を口にしているのか調べたところ、多くの人がこの言葉を口にしているという。
 本書は102の諺を中心に、著者がこれまでに出会った人物や出来事を綴ったエッセイ集である。生活に根差した諺というレンズを通して、日本人にはますます「理解しにくい国」とされつつあるロシアの等身大の姿を伝えようとするものだ。内容はインタヴューした政治家や文化人に関するものから、歴史、芸術、食文化、果てはペット事情など多岐にわたっている。心が温かくなるような楽しいものもあれば、ソ連時代の背筋が寒くなるようなものあるが、すべて著者の経験したことであるという。興味深いエピソードを読み進めていくうちにロシアの独特の価値観、多様で奥深い文化が浮かび上がってくる。

 着物姿の芸妓でもなく、満開の桜でも相撲でもなく、普通の通勤ラッシュのプラットホームの一枚に撮影者はこんなタイトルを付けるだろう。「習慣は第二の天性」の証明写真。(本書16ページ)

「習慣は第二の天性」という諺にまつわるエピソードである。ロシア人が日本で撮った写真のコンクールが開催された。そこで話題になった一枚の写真がある。新宿駅のプラットホームの全景を映したものである。混雑した駅のホームで電車を待つときに整列するのは、日本では当たり前の風景である。しかし、ロシアにはそうした習慣がないのでとても不思議に見えたのであろう。さらに町中にゴミ箱がないにもかかわらず、ほとんどゴミが落ちていないことも驚きの対象であるという。こうした話を聞くと、秩序があるのが日本で、ないのがロシアだと考えてしまいそうだが、それは違う。著者がロシアに勤務していたとき、アシスタントの女性とエレベーターに乗ろうとした。先に乗ろうとしたところ、その女性に足を蹴られて驚いたことがある。理由は日本では無視されている「女性を先に」という礼儀がロシアでは定着しているからである。この逸話だけでもその違いに驚かされるとともに、他国の文化を一面的に判断する危うさに気づかされる。

ものごとの真価は短期間では分からない

 改革を唱えるゴルバチョフがロシアの指導者になって二年後の一九八七年、美術にも理解があり文化基金の理事でもあったライサ夫人の力で、モスクワのプーシキン美術館でシャガール生誕百年記念の特別展が開催された。(中略)圧巻のシャガール展だったが驚いたことに展示作品の八十五点がロシアの国立美術館が所蔵しているものだった。(中略)その采配をしたのが保守の牙城のように言われていた文化省だというから、頭は混乱する。ロシアを「確かめる」には途方もなく長生きをしなければならないと教えてくれた出来事だった。(本書157頁)

 これは「信じよ、だが確かめよ」という諺を紹介したエッセイに収められたものだ。マーク・シャガールといえば言わずと知れた画家である。出身はロシアであるが、革命が起きてから5年後にパリに移住しその後に世界的に知られる存在となった。そうした経緯からソ連時代は祖国を捨てた人間とみなされ、百科事典にも「ロシア生まれのフランスの画家」とそっけなく記され無視されていた。しかしペレストロイカ後、祖国で展覧会が開催され明らかになったのは、ゴチゴチの堅物が集まる保守派の牙城と考えられていたソ連文化省のなかに彼の芸術を理解し密かに収取、保存した人たちがいたことだ。
 ソ連体制下で表面的に党の方針に従いながらも、芸術や文化の価値を理解し守り抜いていた人びとがいたことが、長い年月を経て政治体制が変わり、はじめて明らかになった。文化に対する懐の深さが伝わって来ると同時に、ものごとの真価は短期間では分らないことを痛感するものであろう。

最も近い国ロシアを知る重要性

 ささやかだがこの諺の持つ重みを皆さんに実感していただくことができたと喜んでいた矢先のロシアのウクライナに対する軍事侵攻に、私のロシアへの理解を進める試みがひどく傷付けられた思いがする。だが一緒に合宿旅行をした人たちと話していると、私が旅で狙ったロシア理解は間違いなく皆さんの心の隅に生きていて、無駄ではなかったと嬉しく思う。蒔いたタネが芽を出すには長い時間がかかると思うが、気長に見守ることにしよう!(本書87頁)

「百聞は一見に如かず」は日本とロシアで共通する諺だ。私たちが思っている以上にロシアには親日文化が根づいているという。アニメや漫画などのサブカルチャーはもとより書店には村上春樹の翻訳本が平積みにされている。だが日本では東西冷戦の影響が残っているのか、いまだに堅物、暗い、怖い、恐ロシア!といったステレオ・タイプの偏見が強い。コロナ過以前、ロシアからの訪日者は12万人であったのに対して日本からの訪ロ者はその半分程度であったという。
 こうした状況を改善したいと願い、著者は講演で知り合った人を誘いロシアを訪問していた。そして参加者の中には必ず「ロシアが嫌いだ」と公言した人を加えたそうである。最初は否定的な発言をしていた人であっても、現地での暮らしの様子や美術館を訪問するうちに偏見を捨て去り、なかには「ロシアに亡命したくなった」という冗談を言う人まで出てきた。まさに「百聞は一見に如かず」である。
 ウクライナ危機以降、地理的には日本に最も近い国であるロシアがますます遠くなった感がある。そうした厳しい状況だからこそ、これまで以上にロシアを正しく理解する必要があるのではないだろうか。さらに、これまで両国の友好を願い地道な民間交流を続け、平和の種を蒔き続けてきた先人たちの労苦を決して忘れてはならない。
 本書は諺を題材にしているので、前提とする知識がなくても楽しく読み進め、確実に知識を深めることができる。これまでロシアに関心がなかった人や良い印象を持っていなかった人にこそ読んでほしい一冊である。

『頭じゃロシアはわからない~諺で知るロシア』
(小林和男著/大修館書店/2023年6月25日)

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こばやし・よしお●1975年生まれ、東京都出身。機関紙作成、ポータルサイト等での勤務を経て、現在はライター。趣味はスポーツ観戦。