10代のころ、詩らしきものを書いていた。好きな詩人は、立原道造、中原中也。立原の詩は、いまでも好きな一節を暗唱できる。あるスーパーマーケットでごみ処理のアルバイトをしていたとき、小雨の降るなか、ごみを運ぶトラックが来るのを待つあいだ、その詩を口ずさんでいた。いつかプロの文筆家になったら、このことを書いてやろうとおもったことを、はっきりと憶えている(ついに書きました!)。
ここでその詩を引きたいところだけれど、とりあげる本が詩人・石垣りんの『朝のあかり』というエッセイ集なので、やめておく。
率直に言うと、その当時、僕は石垣りんを読んだことがなかった。いまや日本を代表する詩人のひとり。でも、僕は読んだことがなかった。名前は知っていたとおもう。そのころ『現代詩手帖』という現代詩の専門誌を読んでいたので、見かけたことはあったはずだ。
それが読んだことがないというのは、つまり、関心が持てなかったわけだろう。僕は、立原道造や中原中也の抒情に魅せられていて、自分もそういう詩を書いていた。石垣りんの詩は、彼らの抒情詩とはちがう。
「くらし」という詩は、次の一行で始まる。
食わずには生きてゆけない
石垣りんのすぐれた詩の数々は、生活と密着している。少年の僕には、そういう生活がぴんとこなかったのだろう。詩人は、どのように生活しているのか。本書を読んでみると、それがわかる。
石垣りんは、少女のころからものを書くことが好きで、好きなことをするためには働いて稼がないといけないと考え、学校を義務教育で終えて、銀行へ勤めに出た。14歳のときだ。
それから定年の55歳までひとつの職場で働き続けた。ときには家族6人の暮らしを彼女ひとりの稼ぎで養ったという。
詩人としては、39歳で第一詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』を出した。48歳で、二冊目の『表札など』を出す。49歳で詩の芥川賞と言われる「H氏賞」を受ける。早熟の才幹を持ったひとではなかった。
詩のほかにエッセイもけっこう書いている。それを選りすぐって集めたのが本書なのだが、これが詩におとらず、いい。
銀行を定年まで勤めあげて、手に入れた1DKのマンションでのこと。
元旦の昼、年賀状をとりに階下へ降りたら、盛装をした隣の奥さんと出会った。「おひとりでは、なにもなさらないんでしょう?」と訊かれ、「ええ、この通り」と大晦日と同じ服を着た姿をあらためてさらした。
やがて隣の奥さんからお節料理が一折とどいた。彼女はひとりで新年を祝った。
しかし石垣りんのご近所づきあいは、広くない。お隣さんを訪ねたこともない。室内に入ったことがあるのは、不幸のあった一家と管理人室だけ。そんな彼女にある夜、不意の電話があった。
受話器の向こうの相手は、かつて近所に住んでいた家の隣人榊さんの娘・節子だった。けれど、せっちゃんとは赤ん坊のとき以来、会っていない。向こうは、自分を覚えているはずもない。なぜ? どうして?
実は、眼の不自由になった父親が、石垣りんがTVに出ているのを聴いて、昔と同じ声だ、と言ってきたという。父は鹿児島に住んでいて、自分は埼玉にいると電話は切れた。彼女の家族は、石垣りんの家と向かい合わせの家に住んでいた。
石垣りんが二階の自室で机に向かっていると、洋服の仕立て屋を営んでいた榊さんは同じ二階で仕事に励んでいて、たがいの様子がよくわかる。「ゆうべもおそかったですなあ」とよく声をかけてくれた。
それはあまりにも遠すぎる話だろうか。親たちの古い近所づき合いが、地下茎のように年月の下を這っていて、ある晩、ふいに芽を吹いたのである。節ちゃんも三十歳を越したろう
人間関係の綾を、うまくとらえて余情を残す。悔しいけれど、これは詩人にしか書けないエッセイだろう。
おすすめの本:
『朝のあかり――石垣りんエッセイ集』(石垣りん著/中公文庫)