第33回 方便④
[3]具五縁について②
(2)持戒の相を明かす②
②理の持戒の相を明かす
前回までが事の持戒の説明で、次に理の持戒について説いている。次のように、『中論』のいわゆる三諦偈に基づいて、因縁所生法、空、仮、中の四段階に分けている。
最初の不欠・不破・不穿(ふせん)・不雑(ふぞう)の四戒は、心は「因縁所生の法」であると観ずるもので、後の空観・仮観・中観の三観の対境となる。第二の随道・無著の二戒は空観の持戒であり、第三の智所讃・自在の二戒は仮観の持戒であり、最後の随定・具足の二戒は中観の持戒とされている。
さらに、これらの四つについて個別に説明している。要点を示す。
第一に、心が因縁によって生じる法であると観察することについては、もし一念の心が悪縁から生じることを観察すれば、不欠戒(根本戒)・不破戒・不穿戒・不雑戒を破ってしまう。善良で柔順な心によって、悪の心を防止し、不欠戒・不破戒・不穿戒・不雑戒に、善良で柔順な心が成就して毀損がないようにできるようにさせるので、善心と呼び、防止と名づける。心の悪が止む以上、身・口の悪も同様に止む。防は止善で止、順は行善で観にそれぞれ相当する。
第二に、善悪の因縁によって生じる心が空であると観察することについては、法と非法との二つとも空寂であることを、持戒と名づける。この場合の法は、ただ善悪の二つの心や、仮法(衆生)・実法(五陰)が有であるものを指す。非法は、それらの法が無であるものを指しているようである。このような法と非法はすべて空であると観察することによって、無漏に順じて、有見(すべてはあるとする見解)・無見(すべてはないとする見解)、六十二見を防止することができるとされる。これを随道戒と名づける。もしこの観察を重ねて考え、思惟が混じりけがなく成熟して、行住坐臥などの縁(条件)を経歴して色(いろ形あるもの)・声などの境に対し、すべての色・声についていずれも空であるならば、無著戒と名づける。思惑(貪欲・瞋恚などの情的な煩悩)を防止し、しっかりと真諦に順じるとされる。
第三に、因縁の心は仮であると観察することについては、心も心でなく、法も法でないと知るけれども、ずっと非心と非法に滞らず、道種智の方便によって、無所有(空)のなかにおいて心を確立し、法を確立し、さまざまな心作用の法を救い出して、衆生を指導することを、智所讃戒とする。広く無量の心・法を区別するけれども、ただ名称だけがあり、虚空(大空)の様相のように、愛著を生ぜず、惑いの様相にこだわらないことを、自在戒と名づける。このような仮観は、無知惑(塵沙惑)を防止し、しっかりと俗理(俗諦)に順じるとされる。
第四に、因縁によって生じる心は中道であると観察するとは、心の本性を観察すると、究極的に寂滅であり、心はもともと空でもなく、もともと仮でもなく、仮でないので世間でもなく、空でないので出世問でもなく、賢人・聖人の法でもなく、凡夫の法でもなく、二つの極端が静まりかえっていることを、心の本性と名づけ、このように観察することができることを、上定(上級の禅定)と名づける。心がこの上定にあるならば、首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい)であり、もともと静寂で動揺せず、二諦をどちらも照らし、さまざまな礼儀にかなった振る舞い(威儀)を示す。随定戒のようにこのような禅定にしたがうと、具足戒のようにすべて具足するのである。このような観心は、二辺(二つの極端)の無明の諸悪を防止して、しっかりと中道一実の理に順じるとされる。
また、観心の持戒に、戒、毘尼(びに)、波羅提木叉(はらだいもくしゃ)、誦、律の五名があると述べている。
戒は、防止の意義であり、観にも防止の意義がある。三観を能防(防ぐ主体)と名づけ、三惑を所防(防ぐ対象)と名づける。
毘尼は、滅と名づけられる。身・口のさまざまな非(過失)を消滅させる。観心にも同様な意義があるとされる。即空の観は見思惑の非を消滅させることができ、即仮の観は塵沙惑の非を消滅させることができ、即中の観は無明惑の非を消滅させることができるとされる。
波羅提木叉は、保持されている三惑が解脱を得ること(保得解脱)と名づけられる。観心にも同様な意義があるとされる。もし三諦の理を観察しなければ、保持されている三惑が解脱しない。もし三諦を見るならば、保持されている三惑が解脱するとされる。
誦は、文を暗唱し記憶することである。観心にも同様の意義があるとされる。三観の名前は、三諦の理を説き明かすが、とりもなおさずその文である。名は名でないと知って、心の諦理(真理)を見極め、観法は相続して、常に目の前に現われ、妄念を生じないとされる。
律は、軽・重を計量し、犯戒(ぼんかい)・非犯戒を区別する。観心にも同様の意義があるとされる。見思惑の麁悪(そあく)は沈殿物のように重く、界内の無知惑(塵沙惑)は少し軽く、塵や砂のような客塵(外から来る塵)が乱れて生じるのはさらに少し重いとし、根本(無明惑)は微細であると区別する。三観が三理を観察することは、犯戒ではなく、三惑が三理を妨げることを、犯戒と名づけるとされる。
(3)犯戒の相を明かす
第三の犯戒の相を明かす段落は、正しく犯の相を明かす段と、持・犯の不定を明かす段の二段に分かれている。
第一の犯戒の相を明かす段落では、戒を犯す原因となる愛と見の二種の煩悩について説いている。ここでは、『南本涅槃経』巻第十一、聖行品に説かれる愛・見の羅刹(らせつ)が浮き袋を旅人に乞う比喩に基づいて、少しの譲歩も命取りになる恐れがあることを生き生きと描写している。
善男子よ、譬えば人有りて浮囊(ふのう)を帯持して、大海を渡らんと欲するが如し。爾の時、海中に一羅刹有りて、即ち此の人従り浮囊を乞索(こっしゃく)す。其の人は聞き已りて、即ち是の念を作さく、我れは今若し与えば、必ず定んで没死す。答えて言わく、羅刹よ、汝は寧ろ我れを殺すも、浮囊は得叵(がた)し。羅刹は復た言わく、汝は若し全く我に与うること能わずば、其の半を恵まれよ。是の人は猶故(な)お之れを与うることを肯(がえ)んぜず。羅刹は復た言わく、汝は若し我れに半を恵むこと能わずば、幸いに願わくは我れに三分の一を与えよ。是の人は肯んぜず。羅刹は復た言わく、若し能わずば、我れに手許(ばかり)を施せ。是の人は肯んぜず。羅刹は復た言わく、汝は今、若し復た我れに手許の如きを与うること能わずば、我れは今飢窮し、衆苦に逼まらる。願わくは当に我れを済うこと微塵許の如くすべし。是の人は復た言わく、汝の今索むる所は、誠に復た多からず。然るに、我れは今日、方当(まさ)に海を渡るべく、前道の近遠如何(いか)なるかを知らず。若し汝に与えば、気は当に漸く出ずべし。大海の難は、何に由りて過ぐることを得ん。能く中路を脱し、水に没して死す。善男子よ、菩薩摩訶薩の禁戒を護持することも、亦復た是の如く、彼の渡る人の浮囊を護惜するが如し。(大正12、673下18~674上4)
羅刹が旅人に浮き袋を求める様子は鬼気迫るものがある。旅人は断じて、その要求に屈することがなかった。まさにこのように戒律を守るべきであると教訓している。
次に、第二の持・犯の不定を明かす段では、持・犯の不定なありさまについて、四句分別を設けている。
もし共通に動き出ることを論じるならば、すべて乗(乗り物)と名づけられ、具体的には、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗がある。共通に防止を論じるならば、すべて戒と名づけられ、具体的には律儀戒・定共戒・道共戒などの戒がある。もし個別的な意義にしたがうならば、事戒の三品(天の報を受ける上品、人の報を受ける中品、阿修羅の報を受ける下品)を、戒と名づける。戒は有漏であり、動かず出ない。理戒の三品(空・仮・中の三品)を、乗と名づける。乗は無漏であり、動くことができ、出ることができる。この乗・戒に焦点をあわせて四句に分別すると、第一に乗と戒とがともに急(熱心であること)であり(乗戒倶急)、第二に乗は急で戒は緩(怠惰であること)であり(乗急戒緩)、第三に戒は急で乗は緩であり(戒急乗緩)、第四に乗と戒がともに緩である(乗戒倶緩。これは本文で事理倶緩ともいわれている)という四つの場合を設定している(※1)。
(注釈)
※1 『南本涅槃経』巻第六、四依品、「乗に於いて緩なる者は、乃ち名づけて緩と為し、戒に於いて緩なる者は、名づけて緩と為さず」(大正12、641中17~18)に基づいている。
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