二十歳になるかならないかのころ、うちからかなり離れた駅近くのビルに大型書店が入った。それまで僕は、うちから歩いて数分の小さな書店と、バスに乗って10数分の2階建ての書店に通っていた。
いまはショッピングモールやデパートに大型書店があるのは珍しくないけれど、当時はこの書店ほど品揃えの多い書店を知らなかった。友人といっしょになかへ入って、僕は静かに興奮していた。
僕がいちばん好きなのは、読書だ。それもスイーツをつまみながらの。新刊、古書問わず、買ったばかりの本を手にして、チョコや豆大福を頬張っているとき、僕は生きていてよかったと実感する。この快楽を得ることができるなら、100歳までがんばって生き抜いてやる。
大型書店で背の高い棚にぎっしりならぶ本を見た僕は、宝の山を見つけた海賊のように、できればここにある本を全部手に入れたいとおもった。でも、それは叶わない。その代わり、1冊ずつ棚からぬきだして、ぱらぱらとページをめくる。
どれぐらい時間が経ったか、「おい、帰ろうよ」と友人が言う。帰る? こんなにお宝があるのに? 友人の顔を見ると、えらく不機嫌だ。「まだ、いいじゃん」。僕がいうと、「じゃ、俺、帰る」。「いいよ」。友人は怒ってほんとうに帰ってしまった。
仕方がない。じゃあ、僕はお宝の確認にもどろう。それから、その書店が閉店になるまで、僕はあっちの棚、こっちの棚と、蜜蜂が花のあいだを飛びまわるように、本を手にして幸せだった。許されるなら、書店に泊まりたかった(いまは泊まれる書店があるらしいですよ)。
僕の蔵書には、けっこう読書関係の本がある。そのうちで最近おもしろかったものを紹介したい。『脳を創る読書』。著者は、東京大学大学院総合文化研究科教授・酒井邦嘉。専門は、「言語脳科学および脳機能イメージング」とある。
みなさんは、読書をしているとき、脳がどのように働いているか、知っていますか? 僕も読書は好きだけれど、その仕組みはぼんやりとしか知らなかった。しかしこの本には、明晰に書かれている。
まず、活字は視覚的な刺激として視神経をつうじて、脳の視覚野に入る。次に音にできる活字は脳のなかだけの音に変換され、記憶と突き合わされて単語や文法要素が検索される。
そこから検索された情報は、単語や文法を分析するために、左脳の言語野へ送られる。ここで初めて読むという行為が成り立つ。
著者の考えでは、言語野は4つの領域に分かれていて、後ろのほうに音韻(アクセント)を担当する領域と、単語の意味を担当する領域がある。前のほうには文法を担当する領域と、読解を担当する領域がある。
活字を読むとき、この4つの領域すべてが最大限にはたらいて、さらに活字だけでは足りない情報を想像力で補いながら、曖昧さをなくし、自分の言葉に変換してゆく。
なぜ、こういうことができるかというと、『人間の脳には、「文の構造」を見抜く能力が備わっている』からで、文章をよむとき、文字だけでは分からない文の構造を脳でつくりながら読んでいるのだという。
これは読書をすると頭がよくなるということではないか。
言語能力を決める要因として、読書量は当然関係してくるだろう。読書は、足りない情報を想像力で補って、曖昧なところを解決しながら自分のものにしていく過程だから、常に言語能力が鍛えられることは間違いない
だよね。
本やラジオなど、映像に頼らないメディアは、21世紀のこれからも必要であり続けるだろう。その理由は、本書で繰り返し述べてきたように、それらが想像力や思考力を鍛える有効な手段だからである
でしょ?
脳は、読書などを通してさらに磨かれ、鍛えられていく
著者は、読むだけでなく、書くことの大切さも説く。
書くことで、意識的に自分で考える時間や必要性が生まれる
自分で考えて書き、書いて考える――そうした時間がないと、知識は自分のものにならない。(略)人間が書くことで考えることを取り戻せれば、コンピュータを賢く使うことに何ら問題はない
どうですか? 読むことと書くことは、頭をよくしてくれる。僕は毎日それをしているが、少しは脳が鍛えられているのだろうか。
おすすめの本:
『脳を創る読書』(酒井邦嘉著/実業之日本社)