第30回 方便①
[1]二十五方便
今回は十広の第六「方便」について考察する。この方便とは、第七章の正修止観で説示される十境十乗の観法の用意、準備条件を意味する。具体的な内容としては、具五縁(持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・得善知識)、呵五欲(色・声・香・昧・触の五種の対境に対する欲望を五欲といい、これを呵責すること)、棄五蓋(貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五種の煩悩を捨てること)、調五事(食・眠・身・息・心の五事を適度に調整すること)、行五法(欲・精進・念・巧慧・一心の五法を実行すること)の、一項目五ヶ条からなる五項目が説かれる。つまり、合計すると、二十五ヶ条が説かれている。
これを二十五方便ということもある(※1)が、天台智顗(ちぎ)の最初期の著作である『釈禅波羅蜜次第法門』(『次第禅門』、『禅門修証』ともいう)巻第二にも説かれており(大正46、483下~491中を参照)、さらにまた、『天台小止観』(※2)にも説かれている。『摩訶止観』の二十五方便の叙述においても、その詳しい説明を『釈禅波羅蜜次第法門』に譲っている場合がある。したがって、この二十五方便の思想は、智顗の少壮の時期にすでに確立され、その後晩年にいたるまで一貫して変わることがなかった基本的かつ重要な思想であったと評せよう。
さて、第六章の冒頭には、
第六に方便を明かすとは、方便は善巧(ぜんぎょう)に名づく。善巧に修行して、微少の善根を以て、能く無量の行をして成じ、解発して、菩薩の位に入らしむ。『大論』に、「能く少施・少戒を以て、声聞・辟支仏の上に出過す」と云うは、即ち此の義なり。又た、方便とは、衆縁(しゅえん)は和合するなり。能く和合して因を成じ、亦た能く和合して果を取るを以てなり。『大品経』に言わく、「如来の身は、一因・一縁従り生ぜず、無量の功徳従り如来の身を生ず」と。此の巧能(ぎょうのう)を顕わすが故に、方便を論ず。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)368頁予定)(※3)
とある。「方便」とは、ウパーヤ(upāya)の訳語で、巧みな手段というほどの意味である。したがって、「方便は善巧に名づく」とあるのは、一般的な字義解釈である。この「善巧」(巧妙であること)を修行にあてはめているのが次の叙述である。微少の善根から無量の行を完成するという、いわば小から大を導出するということに善巧の意義があるとされる。
さらにまた、多くの条件が調和統合して因を成じ果を取るということに方便の意味を求めている。すなわち、諸条件がばらばらに乖離散乱することがなく、調和統合されて仏果を完成するところに、巧妙なる和合としての方便の意味が認められるのである。以上が方便の一般的な規定であり、次下には、蔵教・通教・別教・円教の四教のそれぞれにおいて遠方便と近方便とがあることについて、
若し漸次(ぜんじ)に依らば、即ち四種の方便有り、方便に各おの遠近有り。『阿毘曇』に、「五停心(ごじょうしん)を遠と為し、四善根を近と為す」と明かすが如し。通・別の方便は、例して意もて知る可し。円教は、仮名・五品の観行等の位は真を去ること猶お遙かなるを以て、遠の方便と名づけ、六根清浄の相似は真に隣るを、近の方便と名づく。
今、五品の前の仮名の位の中に就いて、復た遠近を論ず。二十五法を遠の方便と為し、十種の境界を近の方便と為す。横竪(おうじゅ)に該羅(がいら)し、十観は具足し、観行の位を成じて、能く真・似を発するを、近の方便と名づく。(『摩訶止観』(Ⅱ)368~370頁予定)
と述べている。『阿毘曇』の引用はいうまでもなく蔵教における方便を示すものである。「五停心」は、不浄観・慈悲観・数息観(すそくかん)・因縁観・念仏観(または界分別観)を指す。不浄観によって貪欲を止め、慈悲観によって瞋恚(しんに)を止め、数息観によって散乱心を止め、因縁観によって愚癡を止め、念仏観によって種々の煩悩を止めることができるとされる。この五停心観は、別相念処、総相念処とともに三賢といわれ、蔵教の声聞における外凡の位である。「四善根」は、煖・頂・忍・世第一法の位で、蔵教の声聞における内凡の位である。この三賢・四善根を七方便位といい、これらの凡位から、見道・修道・無学道の聖位に進入するのである。
次に、通教、別教については説明を省略し、円教における「仮名・五品の観行等の位」を遠方便としている。文中の「仮名」は円教の階位である六即のなかの名字即の位を指し、「五品」とは五品弟子位で観行即を指している。また、「六根清浄の相似」は、相似即のことである。したがって、円教においては、名字即、観行即が遠方便であり、相似即が近方便であるとされる。もちろん、分真即・究竟即は、真実を証するのであるから方便とはいわれない。
本文では、さらに円教の名字即の位における方便を論じ、二十五法を遠方便とし、次の第七章で説示される十境十乗の観法における十種の対境を近方便としている。十種の対境とは、陰界入・煩悩・病患・業相・魔事・禅定・諸見・増上慢・二乗・菩薩の十種の観察の対象界のことである。この近方便については、さらに説明されて、十観を備え、観行即の位を成就して、分真即と相似即を生ずることができることを、近の方便と名づけると述べている。十観は、十乗観法のことで、観不思議境・起慈悲心・巧安止観・破法遍・識通塞・修道品・対治助開・知次位・能安忍・無法愛の十種の方法によって十種の対境を観察することである。ここでは、分真即を生ずることも近方便とされているようであり、上の説明で、相似即だけを近方便としたことと、少し説明が相違している。
さて、遠方便としての二十五方便は、前述したとおり、具五縁、呵五欲、棄五蓋、調五事、行五法の五項目からなっているが、この五項の相互関係については、
夫れ道は孤(ひと)り運ばず、之れを弘むるは人に在り。人は勝法を弘むるに、縁を仮りて道を進む。所以に須らく五縁を具すべし。縁の力は既に具すれば、当に諸の嗜欲(しよく)を割(さ)くべし。嗜欲は外に屛(しりぞ)くれば、当に内に其の心を浄むべし。其の心は若し寂ならば、当に五事を調(ととの)え試すべし。五事は調い已り、五法を行ぜば、必ず所在に至らん。(『摩訶止観』(Ⅱ)370頁予定)
と述べている。そもそも道はそれだけでは物を運ぶことはないので、仏法を弘めるには、人に依存しなければならない。人が勝れた法を弘める場合、縁を借りて道を進む。これが五縁を備えることに相当する。五縁の力が備われば、さまざまな嗜欲(好み)を破るべきである。嗜欲は外に除かれると、次に内にその心を浄化するべきである。外に除くことが五欲を呵責(かしゃく)することに相当し、内に心を浄化することが五蓋を捨て去ることに相当する。心がもし静寂であれば、五事を調えるべきであり、五事が調えられて、五法を行じるならば、初住の位に到達すると述べられている。
『摩訶止観』の本文では、この五項を陶師(陶芸家)が器を制作するときの必要条件にたとえている。要点を示す。陶師がもし器を得ようとするならば、まず良い場所を選択し、砂がなく塩土がなく、草や水が豊かで便利であるところに、作業所を立てる(具五縁)。次に、その他の交際の務めを止める。交際の務めが静かにならなければ、功績を成就することはできない(呵五欲)。外の縁を止めるけれども、身体の内側に疾病があれば、働くことができない(棄五蓋)。身体は壮健であるけれども、泥・輪が調わなければ、器物を作れない(調五事)。上の縁は調うけれども、仕事に集中せず、廃止して継続しなければ、完成する道理はない(行五法)と説明されている。
この陶師の比喩を借りて、結論として、
世間の浅事すら、縁に非ざれば合せず。何に況んや出世の道をや。若し弄引(ろういん)無くば、何ぞ階(のぼ)る可きこと易(やす)からん。故に二十五法に歴(へ)て、事に約して観を為し、麁を調えて細に入り、散を検して静(じょう)ならしむ。故に止観の遠(おん)の方便と為すなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)372頁予定)
と述べている。陶師の陶器作りのような世間の浅い事柄でさえ、条件がそろわなければ、世間の浅い事柄に合致しない。まして仏道という出世間の道はなおさらである。もし方便がなければ、出世間の道に登ることは難しい。したがって、二十五法の方便を経験通過して、具体的な事柄に焦点をあわせて観察を行ない、粗雑なものを調えて微細なものに入り、散乱を調べて静寂にさせる。これが止観の遠の方便である。『輔行』は、「世間の浅事」を「界内の禅定」と解釈しているが、宝地坊証真(ほうちぼうしょうしん/12~13世紀の天台宗の学僧)はこれを批判して、陶師が器を作ることと解釈している。
(注釈)
※1 『摩訶止観』巻第九下、「初禅の相は、前の二十五方便の中の如し」(大正46、126上22-23)を参照。
※2 大正四六巻所収の『修習止観坐禅法要』と題するものとは別に、『略明開矇初学坐禅止観要門』と題するものとがあるが、後者が本来の形を示すものとされ、関口真大氏によって校訂出版されている。関口真大『天台小止観の研究』(山喜房仏書林、1954年)、関口真大訳注『天台小止観―坐禅の作法―』(岩波書店、1974年)を参照。『天台小止観』の現代語訳にはいくつかあるが、新田雅章『天台小止観―仏教の瞑想法―』(春秋社、1999年)を参照。なお、『天台小止観』は『釈禅波羅蜜次第法門』の要略本であり、智顗の思想が『摩訶止観』へと発展していく過程で説かれたものであるとされる。また、仏教の修行を、禅という言葉から止観という言葉に変えて体系化していることが重要である。
※3 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。
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