『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第28回 偏円⑤

(5)権・実を明かす②

(b)四種の止観に約して、以て開権を明かす

 今回は、(b)「四種の止観に約して、以て開権を明かす」以降について説明する。四種の止観とは、蔵教・通教・別教・円教の四教の止観を指す。この四種の止観について、蔵教・通教・別教の三教の止観が権で、円教の止観が実であること(これは開会<かいえ>されない、相対的な立場における規定である)はすでに述べたことを踏まえて、ここでは、別の見方を示している。
 まず、四種の止観は開会すれば、すべて実であると規定する。開会は、一応は方便を除いて真実に入らせることであるが、さらにいえば、方便を真実のなかに収め取って、方便を真実として復活蘇生させる意義がある。次に、四種の止観は、それらによって示される四種の理がすべて不可説であるのに、強いて言葉で説くので、すべて権であると規定される。最後に、前二者においてすべてが実、すべてが権とそれぞれ規定したが、これらの実、権はすべて不可説であるので、すべて権でもなく実でもない(非権非実)と規定され、これらの説明を踏まえて、結論として、

 非権非実(ひごんひじつ)にして、理性(りしょう)は常に寂なるを、之れを名づけて止と為し、寂にして常に照らし、亦権亦実(やくごんやくじつ)なるを、之れを名づけて観と為す。観の故に、智と称し、般若と称す。止の故に、眼と称し、首楞厳(しゅりょうごん)と称す。是の如き等の名は、二ならず別ならず、合ならず散ならず。即ち不可思議の止観なり。此れは但だ実は是れ非権非実なりと開くのみならず、権も亦た是れ非権非実なりと開く。猶お開権顕実の意に属するのみ。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)360~361頁予定)(※1)

と述べている。止観の意味について、権でもなく実でもなく、理性が常に静寂であることを、止と名づけ、静寂でありながら常に理性を照らし、権でもあり実でもあることを、観と名づけると述べている。また、観を智、般若と呼ぶ。止を眼、首楞厳(健相、健行、一切事竟などと漢訳される三昧の名)とそれぞれ呼ぶが、このように言い換えられる名は同一である。名称が異なるので「合ならず」(合致していないこと)といわれ、理が異ならないので「散ならず」(ばらばらに分散していないこと)と規定されている。ただ実は権でもなく実でもないと開会するばかりでなく、権は権でもなく実でもないと開会する不可思議の止観であると説明されている。

(c)接通に約して、以て教理を明かす①

 次に、(c)「接通に約して、以て教理を明かす」について説明する。ここでは、別接通(べっせつつう)について説明している。そもそも天台教学には、別接通、円接通(えんせつつう)、円接別(えんしょうべつ)の三被接(ひしょう)説が説かれている。通教の修行者が別教の但中を悟って別教に転入することを、別接通という。また、通教の修行者が円教の不但中を悟って円教に転入することを、円接通という。被接の「被」は受け身の助字であり、「接せらる」と読む。「接」は接続という意味なので、通教から別教、円教にそれぞれ接続されることを意味する。
 また、別教の修行者が但中の道理を観察するなかで、円教の不但中の道理を悟れば、円教に転入することになるが、これを円接別という。別教の初地以上は円教の初住以上に相当し、別教の初地以上の証道(仏の言教を指す教道に対する語で、真理を証得すること)は円教と同じであるので、初地以上には被接を論ぜず、別教の十住・十行・十廻向から円教の初住以上に転入することを指す。(この項つづく)

(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。