世界宗教化と日蓮本仏論
創学研究所(松岡幹夫所長)から『創学研究Ⅱ――日蓮大聖人論』(第三文明社)が刊行された。
創学とは「創価信仰学」のこと。創学研究所は、創価学会の信仰に基づいた学問的な研究をめざし松岡所長が個人として設立した。言うなれば創価信仰学とは創価学会にかかわる「神学」であり、その意味では学問としての仏教学や宗教学とはアプローチがまったく異なる。概略は『創学研究Ⅰ』(2022年刊)の書評(「書評『創学研究Ⅰ』)を参照していただければ幸いである。
松岡所長は今回の『創学研究Ⅱ』の「発刊の辞」のなかで、創価学会の信仰には三つの柱があると思うとし、御書根本、日蓮大聖人直結、御本尊根本を挙げている。
そして、『創学研究Ⅰ』では一つ目の御書根本の視点から現代の仏教学や宗教学の見解、近代以降の日蓮研究の成果を論じたのに対し、今回の『創学研究Ⅱ』は日蓮大聖人直結の信仰に立って、現代の学問的な日蓮論をどう解釈すべきかを論じたと綴っている。
創価学会は、会の最高法規である「会憲」のなかで「教義」として、
この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする。(「創価学会会憲」第1章 第2条)
と明記している。
今や創価学会は世界192カ国・地域に広がり、世界宗教化の段階に入った。遠からず日本の会員数よりも諸外国の会員数のほうが多くなる時代も視野に入れ、この「日蓮本仏論」をどのように捉え表現していくべきなのかという議論は不可避であろう。
もとより、教団の「教学」としての内実は教団内部で議論し決定することではあるが、創学研究所のような教団外部の存在が受け皿となって、一級の知性たちと闊達な議論を交わしていくことはきわめて有益であり健全なことだと思う。
紙幅の関係もあり、ここでは主に第2章の松岡所長の講演をもとに、本書の一部を紹介したい。なお信仰学についての書評であり、本稿でも「日蓮大聖人」という表記を用いる。
人間本仏は可能性、日蓮本仏は現実性
一般的には鎌倉時代の祖師の一人として認識されている日蓮大聖人を、あえて「本仏」と位置づける創価学会の教義は、部外者にとって非常にわかりにくい。あるいは特定の人物を神格化し絶対視する危うい思想と見なされかねない。
松岡所長は収録された講演のなかで、「縦軸」としての「日蓮本仏」と「横軸」としての「人間本仏」という視点を披歴している。また、同じ観点を「唯一性」と「平等性」という言葉でも語っている。
すなわち、日蓮大聖人のみを唯一の本仏と見る「日蓮本仏」の信仰観と、日蓮大聖人だけでなく万人が平等に本仏であり宇宙的存在であると見る「人間本仏」の信仰観である。
松岡所長は池田会長の著作に触れながら、次のように述べている。
宗教上のいかなる絶対者も、じつは凡夫=人間の「影」であり、働き、手段にすぎない。森羅万象の根源は超越的な神仏でなく人間自身である。これが、日蓮大聖人と師弟不二の実践を貫き、大聖人の御遺命である世界広宣流布を現実に推進した池田先生の仏教観の究極ではないかと、私は考えます。つまり、「人間こそが根本の仏である」とする「人間本仏」の思想です。
そして、それは取りも直さず「日蓮本仏論」になります。日蓮本仏論とは、凡夫=普通の人間のままで仏の生命を顕された大聖人こそが根本の仏であるとする思想だからです。ゆえに、私たちにとっては、人間本仏にして日蓮本仏が大聖人の本仏観の真意です。ただし、人間本仏は可能性、日蓮本仏は現実性という違いがあります。
日蓮大聖人ただ一人が釈尊の覚りの究極である宇宙根源の法としての「南無妙法蓮華経」を自身の生命に覚知して具現し、その自身の生命を十界の曼荼羅本尊に顕した。重要なことは、日蓮大聖人があくまでも「凡夫=普通の人間」として生き抜き、その凡夫の生命の上に宇宙根源の法を顕現し得たという点になるのだろう。
事実、日蓮大聖人は法華経に示されたとおりのたび重なる命に及ぶ難を勝ち越えて、膨大な御書を遺し、曼荼羅本尊を顕して、未来の門下に広宣流布を託した。その御書を根本とし、曼荼羅本尊を信じ、世界への広宣流布を実現したのが創価学会であり池田会長である。
あらゆる人間が森羅万象の根源たる南無妙法蓮華経の当体であるということを、理念や観念としてではなくわが身の事実の上に顕そうとすれば、「日蓮本仏」の信仰に立って日蓮大聖人を師と仰ぎ、その実践に続こうとする師弟不二の信心が不可欠となる。
日蓮大聖人に「唯一性」を置くからこそ師と仰ぐのであり、しかし万人に本仏の可能性があるという「平等性」を同時に信じるからこそ、〝師弟不二〟の信仰実践を重視するのである。創価学会にあっては、「日蓮本仏」に立脚することによって「人間本仏」の道が万人に開かれているということになろう。
唯一性と平等性が並立する本仏論
松岡所長は過去700年間の「日蓮本仏論」の推移を詳細に検証しつつ、大聖人からの700年間を教義中心の「護持の時代」とし、創価学会が出現したあとを布教中心の「広布の時代」と意義づけている。
「広布の時代」の日蓮本仏論は、戸田先生の「唯一性を表とする中道本仏論」から、池田先生の「唯一性と平等性が並立する中道本仏論」へと展開していきました。
(中略)
日蓮大聖人の仏法の目的は広宣流布です。よって、「広布の時代」の日蓮本仏論である創価教学、なかんずく真に中道本仏論を開示した池田先生の教学こそ救済論的な日蓮本仏論史の全体における完成点というべきなのです。
松岡所長は、池田会長によって完成された本仏論を「唯一性と平等性が並立する中道本仏論」と表現している。90年代に日蓮正宗と決別したあとに編まれた『法華経の智慧』や『新・人間革命』などをひもときながら、池田会長が徹底した平等性の本仏論と、戸田会長以来の唯一本仏論を絶妙に並立させていることを指摘する。
かつて創価学会がともに歩んできた日蓮正宗では、1979年に阿部日顕が法主の地位に就いてから強権的な原理主義を標榜し、1990年に創価学会の乗っ取りを謀って失敗した。すると、「法主の唯一性」を主張するために日蓮本仏論を悪用して、「仏智というものは一般民衆には判るはずがない」「三毒強盛の凡眼凡智の凡夫が千人、万人集まっても、仏様一人のお考えのほうが正しい」といった「唯一本仏論」に偏向していく。
あるいは日蓮正宗の講組織に淵源を持つ顕正会も原理主義集団であり、国立戒壇論を正当化するために権威的で神秘的な「唯一本仏論」に偏向している。
一方で、松岡所長は近年の一部論者が日蓮本仏論の現代化を図ろうとする動きのなかに、「唯一性」を排除して「平等性」のみで本仏論を立てようとする動きがあることには警鐘を鳴らしている。
現代的な価値観に合わせて「平等本仏論」を唱えること自体が逸脱ではないとしても、仮に創価学会の信仰から「日蓮本仏の唯一性」を排除してしまえば、「御本仏日蓮大聖人に直結する創価学会の師弟の道」は形骸化し、結局は人間本仏、平等本仏も観念論になってしまうと言うのである。
本書ではこれら松岡所長の講演を加筆採録した「日蓮本仏論再考――救済論的考察」のほか、日本仏教の権威である末木文美士・東京大学名誉教授による講演「思想史から見た日蓮遺文」、日本思想史の第一人者である佐藤弘夫・東北大学大学院教授の講演「日蓮の信仰体験と立教開宗への道」、鼎談「理性と信仰をめぐって」(黒住真×佐藤優×松岡幹夫)、論考「三代会長の日蓮大聖人観」(蔦木栄一・三浦健一)などが収録されている。
従来の宗教学や仏教学、あるいは文献学や歴史学の理論に偏らず、あくまでも信仰者として三代会長と共に実践する者としての立場から日蓮本仏論を再検証していく試み。コロナ禍という困難な時期にあって、短日月のあいだに第一級の識者らと議論を重ね、こうして活字として世に問うた創学研究所の各位の労を讃えたいと思う。
『創学研究Ⅱ――日蓮大聖人論――創価学会の日蓮本仏論を考える』
創学研究所 編
価格 1,980円(税込) ※電子版1,480円(税込)
第三文明社/2023年10月11日発売
⇒Amazon
⇒紙版・電子版(第三文明社 公式サイト)
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