第26回 偏円③
(4)漸・頓を明かす②
(d)教・行・証の人と因果
蔵教・通教の二教の止観は、因のなかには教・行・証の人がいるが、果には教だけがあって、行・証の人はいないとされる。その理由については、因のなかの人は、身を灰にして小乗の涅槃に入り、空に沈んですべて消滅し、果としての仏を成就することができないからであると説明されている。
別教の場合も同様に、因のなかには教・行・証の人がいるが、果には行・証の人はいない。これは、先に述べた通り、別教において無明を破して初地の位に登るとき、この位はそのまま円教の初住の位となり、修行者は円教に進むからである。したがって、別教の果には、人(仏)がいないことになり、これを果頭無人(かずむにん)という。
円教の場合は、因のなかの教・行・証の人は、すべて因から果に到達するので、果にも教・行・証の人がすべて備わるとされる。
(e)開漸顕頓
蔵教・通教・別教の三教の止観の教・行・証の人は、開会(かいえ)されないときは、円を知らないし、まして円に入ることはないとされる。しかし、仏が漸を開し頓を顕わすときは、すべて共通に円に入ることができる。この場合、三教の止観は即頓(たちどころに頓であること)ではないが、漸頓(段階的に頓になること)といわれる。このことは、漸から円に入ること、漸を開会して頓をあらわすことともいわれる。
(f)毒発不定(どくほつふじょう)
蔵教・通教・別教・円教の四種の止観が円教に入ることは、必ずしもすべて行が成就することを待って円教に入るのでもなく、必ずしもすべて漸を開会して頓をあらわすことを待って円教に入るのでもなく、いつ入るのかは確定していない。その理由について、一切衆生の心性の正因仏性を乳にたとえ、了因仏性の法を聞くことを、乳の中に毒を入れることにたとえて説明している。
乳が、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味と五味に変化しても、乳の成分である四微(しみ)(色・香・味・触の四種の極微[ごくみ])は常に存在するので、毒はこの四微にしたがって、五味のいずれにおいても人を殺すことができる。この場合の毒は了因仏性をたとえ、人は無明をたとえている。つまり、智慧によって無明を破ることは、五味のいずれの段階においても生じうることである。これを毒発不定(毒の効き目が発する時は不定であるという意味)という。正因仏性が破壊されなければ、了因仏性の毒はいつでも発することができるのである。『摩訶止観』巻第三下では、この毒発を理発、教発、観行発、証発に分けて説明している。
辟支仏の利智の善根は熟して、無仏の世に出で、自然に悟ることを得るが如く、理の発も亦た爾り。久しく善根を植ゆれば、今生に円教を聞かずと雖も、了因の毒は、任運(にんぬん)に自ら発す。此れは是れ理の発なり。若し『華厳』の「日は高山を照らす」を聞きて、即ち悟ることを得ば、此れは是れ教の発なり。聞き已って思惟し、思惟して即ち悟るは、是れ観行の発と為すなり。若是(も)し六根浄の位に進みて無明を破らば、是れ相似の証の発なり。若し更に増道損生(ぞうどうそんしょう)せば、亦た是れ証の発なり。此れは円が家(や)に約し、入の不定を論ずるなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)350頁予定)(※1)
長い間、善根を植えると、今生において円教を聞かないけれども、了因仏性の毒が自然に発することが理(理即)の発である。辟支仏(縁覚)を例として説明している。すなわち、縁覚の鋭い智慧の善根が成熟して、無仏の世に出現して、自然に悟ることができる例を挙げている。
次に、『華厳[経]』の三照の比喩のなかの「太陽が高山を照らす」ということを聞いて、すぐに悟ることができることを、教(名字即)の発としている。三照の比喩とは、『華厳経』巻第三十四、宝王如来性起品の「譬えば日の出でて、先ず一切の諸の大山王を照らし、次に一切の大山を照らし、次に金剛宝山を照らし、然る後に普く一切の大地を照らすが如し」(大正9、616中14~16)を指すが、天台家では、『華厳経』の本文の趣旨を離れて、太陽が高山、幽谷、平地を順に照らすことを読み取り、釈尊の説法の五味=五時を決めている(※2)。
次に、教を聞いた後に思惟し、思惟してすぐに悟ることを、観行即の発としている。もし六根清浄の位(相似即)において、進んで無明を破るならば、相似即の証の発とされ、さらに覚りの智慧を増して、生死の苦を減らすことを、分真即の証の発とする。これは円教の範疇に焦点をあわせて、円教に入ることの不確定であることを、円教の階位である六即の概念を使って説明しているのである。なお、相似は真実に似ていることを意味するので、分真即に引き寄せて、相似即も証の発と規定されている。
(g)四種の止観の円・漸
蔵教・通教・別教・円教の四種の止観は、四教それぞれの当分(当該の分斉)において円と漸があるとされる。たとえば三蔵教のなかで十信の初心の方便から真位に入ることを漸と名づけ、三十四心(※3)に結=煩悩を断ち切って果を成就することを円と名づけることができるので、漸と円とをどちらも備えると説明している。同様に、通教と別教のなかの初心から後心までも、漸と円があるといわれる。円教については、その当体において理が究極となること(妙覚)を円と呼ぶけれども、また初心から十住・十行・十廻向・十地・等覚の四十一地までがあり、これを漸と呼ぶことができるので、円と漸のどちらも備えると説明している。円教の円は、漸教の円ではなく、円教の漸は、漸教の漸ではないので、四教の当分においてすべて漸と円の二つの意義を備えていると結論している。このことについては、『法華玄義』に説明を譲っている(※4)。
この後、観心の立場から、『涅槃経』を引用して、四教それぞれの五味について説明しているが、説明は省略する。
(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。
※2 『法華玄義』巻第一上、「教とは、聖人の下に被らしむるの言なり。相とは、同異を分別するなり。云何んが分別するや。日の初めて出でて、前に高山を照らすが如し……法の縁に被らしむるに約せば、縁の大益を得るを頓教の相と名づけ、説の次第に約せば、牛従り乳味を出だす相と名づく。次に幽谷を照らす……法の縁に被らしむるに約せば、漸教の相と名づけ、説の次第に約せば、酪味の相と名づく。次に平地を照らす……若し説の次第に約せば、醍醐味の相なり」(大正33、683中9~下6)を参照。
※3 三十四の刹那の心で、八忍・八智と九無礙・九解脱とを合わせたもの。蔵教においては、八忍・八智によって見惑を断じ、九無礙・九解脱によって修惑=思惑を断じて成仏するとされる。
※4 『法華玄義』巻第九下、「二に四句もて料簡すとは、問う。若し初住に理に入るを、名づけて円因・円果と為すと言わば、何ぞ文に、漸漸に修学して仏道を成ずることを得と云うことを得ん。……此の経の宗は、利益巨大なり。始め円漸自り終わり円円に竟わるまで、大乗の因果は、増長し具足す、云云」(大正33、796上24~中18)を参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
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