『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第22回 摂法①

 今回は、まず十広の第四章「摂法(しょうほう)」について紹介する。「摂法」とは、法を包摂するという意味であり、止観がすべての仏法を具足する(完備する)ことを明らかにする章である。その冒頭には、

 第四に摂法を明かすとは、疑う者は、止観の名は略にして、法を摂すること周(あまね)からずと謂う。今は則ち然らず。止観は総持して、遍く諸法を収む。何となれば、止は能く諸法を寂し、病に灸(やいと)するに穴(つぼ)を得れば、衆(もろもろ)の患(わずら)いは皆な除くが如く、観は能く理を照らすは、珠王を得れば、衆の宝は皆な獲るが如く、一切の仏法を具足す。『大品』に百二十条有り、及び一切の法に皆な当に般若を学ぶべしと言う。般若は秖(た)だ是れ観智なるのみなれども、観智は已に一切の法を摂す。又た、止は是れ王三昧にして、一切の三昧は悉ごとく其の中に入る。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)308~309頁予定)(※1)

とある。止観という名称は簡略であるが、止は諸法を静寂にすることができ、病に灸をする場合、つぼを得れば、多くの悩みがすべて除かれるようであり、観は理を照らすことができ、宝石の王を得ると、多くの宝がすべて獲得されるようなものであり、すべての仏法を完備すると説明される。
 そして、この「摂法」の章は、止観がすべての理、すべての惑、すべての智、すべての行、すべての位、すべての教を包摂することの六段に分けられている。これら理・惑・智・行・位・教という六項の関係については、次のように説明されている。

 此の六の次第は、仏有るも仏無きも、理性は常住なり。理に迷うに由るが故に、生死の惑を起こす。理に順じて観ず。是の故に智を論ず。解あるが故に行を立て、行に由るが故に位を証し、位は満ずるが故に他を教う。事理・解行・困果・自他等は、次第に皆な止観に摂し尽くすなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)309~310頁予定)

 仏がいても仏がいなくても、あるいは仏が出現しても出現しなくても、仏教の究極的な真理が常住であるという説は、仏教経典によく出るものである。たとえば、『雑阿含経』巻第十二には、「縁起の法とは、我が作(な)す所に非ず、亦た余人の作すに非ず。然るに、彼の如来は出世するも、及び未だ出世せざるも、法界は常住なり」(大正2、85中24-26)とあり、『大品般若経』巻第十四、問相品には、「仏有るも仏無きも、相性(そうしょう)は常住なり。仏は如実の相性を得るが故に、名づけて如来と為す」(大正8、325下11-12)とある。
 次に、理に迷うことによって、生死の惑を起こす。生死輪廻の原因である惑=煩悩を起こすことをいっている。逆に、理にしたがって理を正しく観察する場合は、智が生じる。智は教えに対する理解をもたらすので、次に修行を確立することにつながる。修行を進めれば、位を登っていき、位が完成するので、他者を教化することができるのである。事理・解行・困果・自他も、以上の説明に含まれる概念であるが、これらも止観に包摂されるのである。
 では、順に六段にわたる法の包摂を順に説明する。

(1)一切の理を摂す

 第一の「一切の理を摂す」の段では、「既に止観を以て体を顕わせば、即ち一切の理を摂するなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)310頁予定)とある。止観によって体を顕わすことについては、十広の第三章の止観の「体相」においてすでに説かれていた。

(2)一切の惑を摂す

 第二の「一切の惑を摂す」の段では、「諦に迷うを以ての故に、生死の惑を起こす。迷いは即ち無明(むみょう)なり」(『摩訶止観』(Ⅱ)310頁予定)とある。「諦」は、「諦法」、「真諦の理」などと言い換えられているが、この「諦」=理に迷うことが無明とされる。ここで、無明から老死までの十二項目にわたる十二因縁(縁起)が示される。そして、理に権(方便)と実(真実)とがあり、権理に迷う場合は、界内(欲界・色界・無色界の三界の内部)の無明から老死までの十二因縁が生じると説かれる。この界内の惑は、従仮入空(じゅげにっくう)の止観によって破られるので、この惑は従仮入空の止観に包摂されるのである。
 次に、実理に迷う場合については、

 若し実理に迷わば、則ち界外の相応・独頭(どくず)等の無明(※2)。有り。所以は何ん。界内に相応・独頭を断ずと雖も、習気(じっけ)は猶お在り。小乗の中には習(じゅう)は正使(しょうし)に非ざれども、大乗の実説には、習は即ち別惑にして、是れ界外の無明なり……此の惑は、入仮・入中の両観の治する所と為る。(『摩訶止観』(Ⅱ)312~316頁予定)

とある。実理に迷えば、界外(三界の外部)の無明から老死までの十二因縁が生じると説かれる。界内の無明を断じても習気は残るが、この習気を小乗では正使ではないとする。正使とは、煩悩の主体で、習気に対して正といい、衆生を駆使して生死に流転させるので使と名づける。このような理由で、使は煩悩の異名となる。習気とは、煩悩の余力であり、煩悩が尽きても、その後に残る習慣性を意味する。
 これに対して、大乗においては、この習気を別惑(界内と界外に共通である通惑=見思惑に対して、界外にのみ存在する惑)として数え、界外の無明とするのである。引用文には、界外の無明とのみ記されているが、別惑は無明惑だけでなく、塵沙惑(じんじゃわく)も含んでいる。この惑は入仮観、入中観に破られるとあるが、入仮観に破られる惑は塵沙惑で、入中観に破られる惑は無明惑のはずである。界内・界外のすべての惑は、三止三観に包摂されることになる。(この項続く)

(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。
※2 「相応」の無明は、見思惑などと合する無明で、「独頭」の無明は、見思惑などと合しない無明を指す。

(連載)『摩訶止観』入門:
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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。