先のこのコラムでは、中島京子の『やさしい猫』を紹介した。今回は、川上未映子の『黄色い家』である。
川上未映子は、詩人としても活躍している。この小説の文章にも印象に残る表現が散見される。うまいなあ、とおもう。嫌味ではない。率直な感想だ。僕が去年だした『結交姉妹』という小説の帯に、吉本ばななちゃんが、「政彦くんはあいかわらず文章がうまいなあ」と書いてくれて、うれしかった。
でも、僕より川上未映子のほうが、文章はうまいとおもう。やはり、詩が書ける人は、いい文章が書けるのだ。
さて、『黄色い家』は新聞に連載された小説だ。僕は月刊誌の連載しか経験がないけれど、新聞連載はむずかしいとおもう。1回の文章量が少ないのに、次も読みたいとおもわせる引きがないといけない。毎回、それを工夫しながら書くのは大変だろう。
生前の中上健次が新聞小説を書いて痩せた、という話を聞いて、あの豪傑がそれほど苦労するのだったら、自分はもし注文があっても、新聞小説は書かないでおこう、とおもった。
しかし『黄色い家』には、そういう苦労のあとが見えない。作者は余裕で書いているようにおもえる。これも芸のうちだろう。
主人公の伊藤花は、吉川黄美子という初老の女性が、若い娘を監禁して暴行した罪で捕まったことを伝える、小さなネット記事を見つける。それは、花が十代のころともに暮らしていた女性だった。ここから物語は回想に入る。
花の母は、スナックで働いていて、男にだらしなく、花を置いて家に帰らないことがあった。そういうとき、黄美子が現われて世話をしてくれた。ある夏、ほとんど一カ月を彼女と過ごしたが、母がもどってきて、黄美子は姿を消した。
母の男は、花が隠していた独立するための貯金を持って逃げた。母子は喧嘩になるが、花は母との暮らしに嫌気がさす。そんなとき黄美子と再会し、スナック「れもん」を開くことになる。
しばらくして、同じ世代で家族に厄介者扱いされているキャバ嬢の蘭も、いっしょに働くようになった。ふたりは、店にやってきた女子高生の桃子と仲良くなり、3人でプリクラを撮ったり、マックでおしゃべりをしたり、青春ごっこを楽しむ。彼女たちは友達というより「家族」を見つけたのだ。
黄美子は、安映水(アン・ユンス)という在日韓国人の男と親しかった。映水は、賭博や保険金詐欺など闇仕事で稼いでいる。このあたりから、ノワール小説の匂いがしてくるが、本作のテーマはあくまでも、居場所探し、だ。
わたしたちは四人でこたつを囲んで肉まんを割って、なにもつけずにそのまま食べた。正方形のよっつの辺にひとりずつが上半身だけを見せてこたつにくっつくように座っていて、そしてそれがどこか妙にぴったりしていて、その感じを見ていると、なんだか自分たちが自由に選んでこうしてこたつを囲んでいるのではなく、じつはなにかの一部であるような――たとえばこの家とか、わたしたち四人がひとつの塊のようなものとしてあって、それぞれがその一部なんだというような、なんだか奇妙なものを見ている感覚になった。
これは四人が共同で借りた一軒家で団欒をしている風景だ。僕は、このくだりが本作の肝だとおもう。このあと、「れもん」が火事になって、店を再開するための資金稼ぎに花がカード詐欺などに手を染めていることになるのだが、それは彼女が、ようやく手に入れた家族とその居場所である「れもん」と「家」を守るための手段に過ぎない。
居場所がない――それは、いまの世界の多くの人々が抱いている欠如の感覚だ。すべての存在者は、居場所がなければ存在できない。『黄色い家』の言葉は、それを言い当てている。
お勧めの本:
『黄色い家』(川上未映子著/中央公論社)