第21回 体相④
[3]境界に寄せて体を顕わす
十広の第三章「体相」の四段のなかの第三段、「境界に寄せて体を顕わす」について説明する。はじめに、能顕(諦境をあらわす主体)としての眼・智についての前の説明を理解できれば、この段の所顕(眼・智によってあらわされる対象)としての諦境について説明する必要がないが、理解しない者のために、この段落があると述べている。この段については、「境を説くの意を明かす」と「境智の離合を明かす」に二分されている。
(1)境を説くの意を明かす
『法華経』を引用して、中道の境がなければ、智も知るものがなく、眼も見るものがないこと、仏眼の境(中道の境=中諦)があるはずであることを知るべきである。『維摩経』を引用して、俗の境(法眼の境=俗諦)がなければ、この眼は仏土を見るべきではないと述べている。『無量寿経』を引用して、慧眼の境(真諦)があるべきであることを述べている。つまり、三種の経典の引用によって、三諦の存在が示されている。この三諦の理は不可思議であり、確定した本性がなく、実に不可説であることが指摘されている。
次に、衆生の機縁のために、随情の説、随情智の説、随智の三説を説くことを説明している。順に、随他意語、随自他意語、随自意語に相当する。それぞれにおいて三諦が説かれることを示しているが、説明は省略する。
また、二諦を明らかにする経典を引用して、三諦の理解の助けとしている。しかし、今度は二諦に執らわれて、三諦を認めない者が出てくるが、これに対しては、仏は常に中道を好むと主張している。つまり、二諦に中諦(中道諦)を加えて三諦とする理由を示している。さらに、随情の説、随情智の説、随智の三説それぞれに四悉檀を備えることを説いている。
(2)境智の離合を明かす
この段は、さらに諦の離合を明かす段と智の離合を明かす段に二分されている。
はじめに諦の離合を明かす段では、蔵教・通教・別教・円教それぞれにおける二諦と三諦の関係について説いている。たとえば、円教における離合については、次のように説かれている。
次に円教は、但だ一実諦を明かすのみ。『大経』に云わく、「実には是れ一諦なれども、方便もて二を説く」と。今も亦た此れに例す。実には是れ一諦なれども、方便もて三を説くなり。『法華』に云わく、「更に異の方便を以て、助けて第一義を顕わすのみ」と。是れ円教の二諦・三諦・一諦の離合の相と為すなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)296頁予定)(※1)
円教はただ一実諦を明らかにするだけであるが、『涅槃経』と『法華経』を引用して、本当は一諦であるけれども、方便によって三諦を説くことがあることを示している。
次に、蔵教・通教・別教・円教の四諦(生滅四諦・無生滅四諦・無量四諦・無作四諦)と蔵教・通教・別教の二諦、円教の一諦との関係について説明している。この諦に関する議論は、『法華玄義』の迹門の十妙の第一境妙に出る、四諦・二諦・三諦・一諦が参考になる(※2)。
次に智の離合については、諸経に説かれるさまざまな種類の智を紹介している。たとえば、一智は仏智である一切種智のことであり、二智は権智と実智であり、三智は三諦を観察する智であり、四智は道慧・道種慧・一切智・一切種智であり、十一智は、『大品般若経』巻第一、序品に説かれる「十一智あり。法智・比智・他心智・世智・苦智・集智・滅智・道智・尽智・無生智・如実智なり」(大正8、219上13~15)を指す。この智に関する議論も、『法華玄義』の迹門の十妙の第一智妙が参考になる(※3)。
[4]得失を明かす
十広の第三章「体相」の四段のなかの第四段は「得失を明かす」である。このなかの失は思議であり、得は不思議であると規定される。
智が境を照らし観察するかしないかにかかわらず、境がもともと自然に存在するという立場、智はひとりでに智でなく、境に基づくので智であり、境はひとりでに境でなく、智に基づくので境であるとするように、境と智とがたがいに依存して存在すると捉える立場、境はひとりでに境であるのでもなく、また智に基づくので境であるのでもなく、境と智がたがいに原因となるので境であり、智もこれと同例であるというならば、これは境と智とがともに合わさって境と智と名づけられるとする立場、ただひとりでにそうなっているとする無因の境・智の立場の四種の立場を設定して、いわゆる自生・他生・共生・無因生の四つの理解にはいずれも過失があると批判している。
このような四つの立場は、それぞれの立場に対する依存があり、依存があれば議論し、議論すれば愛着したり怒ったりし、愛着したり怒ったりすればすべての煩悩を生じ、煩悩を生ずるので戯れの議論をして争い競うことを生じ、争い競うことを生ずるので身・口・意の三業を生じ、業を生ずるので苦しみの海に輪廻し、解脱の機会がないのであると、批判の理由について説明している。これは、龍樹が『中論』で批判したことである(※4)。
このように、自性(自生という性質のもの)・他性・共性・無因性の四性の境・智を破るならば、これを実慧と名づけ、四悉檀によって衆生の機縁に趣いて、自性・他性・共性・無因性の四性の境・智を説くならば、これを権慧と名づけると述べている。このような境・智については、凡夫は権慧と実慧のどちらも失い、二乗は実慧の一つを得て権慧の一つを失い、菩薩は権慧と実慧のどちらも得るといわれる。
その理由については、凡夫には四性があるので自行を失い、四悉檀がないので化他を失うと規定する。二乗は四性を破って第一義に入るので自行を得、衆生を救済しないので化他を失うと規定する。菩薩は自行と化他を完備し、権慧と実慧のどちらも得る。これはテキストに明文はないが、文脈上、蔵教の立場からの説明であろう。
通教の立場では、凡夫がどちらも失うことは思議の失であり、二乗が自行の一つを得て化他の一つを失うことは思議の失であるといわれる。それに対して、菩薩が自行と化他のどちらも得ることは不思議であるといわれる。
別教の立場では、通教の菩薩が自行と化他のどちらも得ることは思議であり、別教の菩薩が自行と化他のどちらも得ることは不思議であるといわれる。
円教の立場では、別教の教道が自行と化他のどちらも得ることは思議である。なぜかといえば、教門(教道)は方便であるからである。別教の教門では、あるときは無明がすべての法を生ずるといい、あるときは法性がすべての法を生ずるという。あるときは縁修(真如を対象とする有心有作=作為的な修行)は真修(ことさらに修行しようという意志を起こさずに無心無作で行なう修行)をあらわすといい、あるときは真修が自然とあらわれるという。このようにさまざまな説き方があるので、これらの説に執著すると、逆に自性・他性・共性・無因性という性の過失を作り、思議のなかに堕落してしまう。もし道を証得すれば、不思議とされる。
円教に関しては、教道と証道といずれも不思議であるといわれる。究極的な道理は言葉で説かないけれども、衆生の機縁のために四悉檀に基づく四種の説を設ければ、ただ仮名だけがあることになり、仮名の名であれば、名は無生である。それ故、教道・証道がいずれも不可思議となる。この最後の立場では、思、念、依存、戯論、結業(煩悩にもとづく業)もなく、業がないので、生死もなくなる。これが自行を得るということである。真実の体を得て、不可説の立場によって説き、衆生を教化して、生死から脱出させ、真実の体を得させれば、自行・化他のいずれも体を得るとされるのである。
以上で、十広の第三章「体相」の説明が終わった。
(注釈)
※1 第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)は本年刊行の予定。
※2 拙著『法華玄義を読む―天台思想入門』(大蔵出版、2013年)195~199頁を参照。
※3 同前、199~209頁を参照。
※4 『摩訶止観』の本文では簡潔に引用されているが、詳しくは、『中論』巻第一、観因縁品に、「諸法は自ら生ぜず。亦た他従り生ぜず。共ならず、無因ならず。是の故に知んぬ、無生は自ら生ぜずとは、万物は自体従り生ずること有ること無し。必ず衆因に待す。復た次に若し自体従り生ぜば、則ち一法に二体有り。一に生と謂う。二に生者と謂う。若し余因を離れて自体従り生ぜば、則ち因無く縁無し。又た生に更に生生有れば、則ち無窮なり。自ら無きが故に、他も亦た無し。何を以ての故に。自有るが故に他有り。若し自従り生ぜずば、亦た他従り生ぜず。共生は則ち二過有り。自は生じ他は生ずるが故なり。若し因無けれども万物有りとは、是れ則ち常と為す。是の事は然らず。因無くば、則ち果無し。若し因無くして果有らば、布施・持戒等は、応に地獄に堕すべし。十悪・五逆は、応当に天に生ずべし。因無きを以ての故なり」(大正30、2中6~7)と説いている。
(連載)『摩訶止観』入門:
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