第20回 体相③
[2]眼・智によって体を顕わす②
(2)不次第の眼・智
次に、不次第の眼・智について説明する。これは一心の眼・智とも表現されているが、円教に相当する。この立場は、対立を融合することが基本であるので、止は観、観は止で、止と観は相即している。また、眼は智、智は眼であり、眼と智は相即している。さらに、眼について見を論じ、智について知を論じるが、知は見、見は知であり、知と見は相即しているといわれる。そして、五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)の最高である仏眼は五眼をすべて備え、三智(一切智・道種智・一切種智)の最高である仏智(一切種智)は三智をすべて備えているといわれる。
この段の最後に、三智は一心のなかにあるという場合と三智を段階的に獲得するという場合の相違を問題にしている。前者は、『大智度論』巻第二十七に、
問うて曰う。一心の中に一切智・一切種智を得、一切の煩悩の習を断ず。今、云何(いか)んが「一切智を以て具足して一切種智を得、一切種智を以て煩悩の習を断ず」と言うや。答えて曰う。実に一切は一時に得。此の中に、人をして般若波羅蜜を信ぜしめんが為めの故に、次第差品(しゃほん)して説く。衆生をして清浄心を得しめんと欲す。是の故に是の如く説く。復た次に一心の中に得と雖も、亦た初・中・後の次第有り。一心に三相有るが如し。生は住に因縁たり、住は滅に因縁たり。又た、心・心数の法の如し。不相応の諸行、及び身業・口業なり。道智を以て一切智を具足し、一切智を以て一切種智を具足し、一切種智を以て煩悩の習を断ずるも亦た是の如し(大正25、260中17~26)
といわれる立場である。三智が段階的に得られるのではなく、一心のなかで同時に得られると説明している点が円教の立場に相当する。末尾の文では、三智が一心のなかで得られても、段階的な獲得を否定するものではないことを述べている。
後者は、『大品般若経』巻第一、序品に、
菩薩摩訶薩は道慧を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。菩薩摩訶薩は、道慧を以て道種慧を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。道種慧を以て一切智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。一切智を以て一切種智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。一切種智を以て煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。舍利弗よ、菩薩摩訶薩は、応に是の如く般若波羅蜜を学ぶべし」(大正8、219上19~26)
といわれる立場である。ここでは、道慧、道種慧、一切智、一切種智(三智ではないが、趣旨は同じと考えてよい)を段階的に備えることが説かれている。これは別教の立場に相当する考えである。
『摩訶止観』では、三智は一心に存在するけれども、人々に理解しやすくするために、段階的な三智の獲得を説いていると答えている。これに関連して、仏には五眼があるけれども、仏眼という一眼に、五眼の作用があり、五つの対境(認識の対象)を照らす働きがあると説明している。具体的には、仏眼が粗雑な色(いろ・形あるもの)を照らすことができることを肉眼と名づけ、微細な色を照らすことができることを天眼と名づけ、粗雑・微細な色は空であると理解することを慧眼と名づけ、仮名を理解して誤らないことを法眼と名づけ、諸法のなかですべて実相を見ることを仏眼と名づけると述べられている。
また、仏智が空を照らすことを一切智と名づけ、仏智が仮を照らすことを道種智と名づけ、仏智が空・仮・中を照らしてすべて実相を見ることを一切種智と名づけるといわれる。
そして、次のように結論している。
一心の三止の成ずる所の三眼は、不思議の三諦を見る。此の見は、止従(よ)り得るが故に、眼の名を受け、一心三観の成ずる所の三智は、不思議の三境を知る。此の智は、観従り得るが故に、智の名を受く。境と諦とは、左右の異なりのみ。見と知とは、眼目の殊なる称にして、応に別説すべからず。今、境を将(もっ)て 来たりて智を顕わし、三観をして明らめ易からしめ、諦を用(もっ)て来たりて眼と目(な)づけて、三止をして解す可からしむ。三の説を作すと雖も、実には是れ不可思議の一法なるのみ。此の一法の眼・智を用て、円頓(えんどん)止観の体を得るなり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)278頁)
一心の三止(体真止・方便随縁止・息二辺分別止)とは、三止を同時に行なうことを意味する。これによって成就される三眼は、不思議の三諦を見、この見は止にしたがって得られるので、眼と名づけられる。一心の三観が成就する三智は、不思議の三境を知り、この智は観にしたがって得られるので、智と名づけられる。境と諦とは意味が通じるし、見と智とは眼目の異なる呼び名である。境によって智をあらわして、三観を明らかにしやすくし、諦によって眼と名づけて、三止を理解しやすくする。三止、三観、三眼、三智というように、三を使うが、本当には不可思議の一法であり、この一法の眼・智によって、円頓止観の体を得るとされる。
最後に、以上の解釈は経典を読んで得られるものではなく、観心に基づくものであること、しかしながら、人々の疑いを避け、信を増すために、経典と合致するものがあるので、それを引用して証拠立て、人々に示すのであると述べている(※1)。
(注釈)
※1 『摩訶止観』巻第三上、「此の如き解釈は、観心に本づき、実に経を読みて次比(じひ)を安置するに非ず、人の嫌疑を避けんが為めに、信を増長せしめんが為めに、幸いに修多羅と合するが故に、引きて証と為すのみ」(『摩訶止観』(Ⅰ)278頁)を参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回
菅野博史氏による「天台三大部」個人訳、発売中!