十代のころ詩を書いていた。好きな詩人は、日本の詩人では、中原中也と立原道造、外国の詩人では、アルチュール・ランボーとロートレアモン。中学生のとき、ランボーの『地獄の季節』を教科書に隠して、授業中に読んだことを憶えている。
欧米では詩人から小説家になる例は少なくない。いや、多くの小説家が文学者としてのキャリアを詩から始めている。でも、日本では詩人から小説家になることは珍しいとまではゆかないまでも、少数派だった。
ところが、近年になって小説を書く詩人が増えている。『現代詩手帖』2023年6月号の特集は、「詩と小説 二刀流の現在」だ。
翻訳家で鋭敏な批評眼の持ち主でもある鴻巣友季子さんが、どこかで「小説は詩に帰りたがっている」と書いていた。僕は、やはり、とおもった。ロベルト・ボラーニョを読んだとき、同じことを感じたのだ。
それを直感した「ジム」という短篇が収められているボラーニョ・コレクション『鼻持ちならないガウチョ』の奥付を見ると、2014年発行とある。いまから9年前だ。「ジム」は散文詩のような短篇小説で、読んだときに新しいとおもった。
ちょうどそのころにノーベル文学賞をもらったバルガス・リョサが、次世代のトップランナーとしてロベルト・ボラーニョを挙げていたので、これは来るな、とおもった。自画自賛になるが、僕は自分の文学的な嗅覚をかなり信頼している。
そこで詩を活かした小説が書ければ、もっといいのだけれど、なにしろスローラーナーである。まず、一度傍らに置いた詩集を読むことから始めて、いまようやく詩を組み込んだ小説を書いているところだ。
ここで僕が再読を始めた詩人のひとり、辻征夫の本を紹介したい。岩波文庫で谷川俊太郎編の『辻征夫詩集』、そして、思潮社から出た『私の現代詩入門 むずかしくない詩の話』の2冊だ。
辻は現代詩の書き手だが、行き詰まった現代詩を蘇らせようという志があった。現代詩の読み手にしか読めない詩は書いていない。普通の読者が分かる詩を書く。
卑俗と
かぎりなく
純なものととなりあい
まざりあって
ふきあげる高貴な現実それが
ぼくのうたでありたい
ぼくの詩でありたい
普通の読者に分かるような言葉で、分かるようなことを書くと、「卑俗」とおもわれる。それはおかしい。だから、現代詩は難解だといわれる。辻のように、もっと「卑俗」な詩があってもいい。
僕は『辻征夫詩集』にドッグイヤーをつくり、書き込みをし、何度も読み返した。そのうちにだんだん十代のころに詩を書いていた感覚が戻ってきた気がする。いくつか試作もしてみている。
この詩集には、付録として編者の谷川俊太郎と辻征夫の対談がある。そこで谷川は、自分は「管」のようなものだといっている。辻も、『私の現代詩入門』で、
詩人とはその時代の言葉が通過する場所であり、装置であろう
と書いている。この、言葉が体を通過してゆく感じ――それが僕にも戻ってきたらしいのだ。小説はけっこう書いてきたが、自分の中にどれだけ詩人としての潜在力があるのか、これから試してみたい。
なお、谷川俊太郎を論じた文章には、こうもある。
谷川さんにとって無意識というのは日本語の総体であり、簡単な決まり文句で言語化されていない領域を探ることが、自分の無意識を探ることにほとんど等しい
僕も日本語の小説家として、この無意識と向き合いたい。
さて、僕のことは置いといて、辻は「俳諧辻詩集」を残している。俳句と詩の融合を試みた作品だ。
林檎
転がりし林檎投手は手で拾い(略)
投手は
降板することも許されず
悄然といまある場所にとり残されている)
詩はどのように読んでもいい。僕はこのくだりから、高校野球をやっていた息子が卒業試合でマウンドに立ち、控えの投手のいないなか、打たれても打たれても投げ続ける姿を見て、泣いたことを思い出した。
人生のマウンドから降りることはできない。一度、登板すればゲームが終わるまで投げ続けるしかないのだ。結局、そのゲームで息子のチームは負けたが、彼は肩が壊れるまで投げて悔いはなかったといっていた。
また、別の詩では、こういう言葉を聴きたいと詩人はいう。
きみのなかに残っているにちがいない
ちいさな無垢をわたくしは信ずる
それがたとえ蟻の涙ほどのちいささであっても
それがあるかぎりきみはあるとき
たちあがることができる
世界はきみが荒んでいるときも
きみを信じている
こんな言葉もある。
ぼくのこころは
まだ発見されない
小さな無人島なんだ
唇には歌でもいいが
こころには そうだな
爆弾の一個くらいはもっていたいな
もうしばらく、僕は辻征夫の詩を読み返すことだろう。渇いた白い土が黒々となるまで。
おすすめの本:
『辻征夫詩集』(辻征夫著/谷川俊太郎編/岩波文庫)
『私の現代詩入門 むずかしくない詩の話』(辻征夫著/思潮社)