書評『なぎさだより』――卓越したエッセイストによる最高の「幸福論」

脳科学者
茂木健一郎

 文章の魅力とは、その人の人生のすべてが凝集して、まるで森のように深く豊かな世界を感じさせることだろう。
 橋出たよりさんの『なぎさだより』は、エッセイストとしての著者の感性がみずみずしく詰まった、読むと心にさわやかな風が吹くような傑作である。 
 大手出版社への勤務経験があり、マスコミの華やかな世界を知る橋出さんは、今は逗子に住んで海風が吹く土地で人生の時を刻んでいる。『なぎさだより』に出てくる生活の様子は、時に感動的で、あるいはホロリと涙を呼び、「そうそう!」と共感を呼ぶような繊細でさりげない観察と、人生についての洞察に満ちている。
 捉えられているのは、橋出さんの、そしてそれを読む私たちの「心が動く」瞬間だ。
 子どもたちとヨモギ摘みをした後、草餅をつくって頰張る。子どもが「指がいい匂い」「春の匂い」と言うのを聞いて、橋出さんはヨモギの花言葉が「幸福、平和」であることを思い出す。
 自家製タンポポコーヒーをつくる橋出さんは、金子みすゞの詩の一節「つよいその根は眼に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」を連想する。コーヒーの味わいと、しっかりと大地に根を張ったタンポポの生きざまが重なる。
 中学校でお世話になった陽子先生に、学校生活で一番大切なことは何かと尋ねる。返ってきた答えは、「友情ですね」。橋出さんは書く。

この迷いなき一言に目の前の霧が晴れた。潔く一生懸命生きている人の言葉は、春の光のようにまばゆい。

 読者にとっては、そんな人生の一瞬を切り取る橋出さんの生き方こそがまばゆいだろう。生活の中で橋出さんの心が動いた瞬間を、言葉のカメラでとらえる。『なぎさだより』は、そんなとびっきりの「写真」が並んだ「心のアルバム」だ。
『なぎさだより』の魅力の一つは、橋出さんの豊富な読書経験に基づき、至るところで引用されている珠玉の作品たちだろう。ジャン・コクトー、金子みすゞ、ビアトリクス・ポター、織田作之助、宮沢賢治、小林一茶、サン=テグジュペリ、水木しげる、伊集院静……。橋出さんの生活から連想される作品群が、そのまま、読者をさまざまな本の世界へと誘っていく。
 おいしそうなものがたくさん出てくることも、『なぎさだより』の読み応えの一つだ。「お月さまがついている」ように見えるアヒルの卵入り中秋月餅。「恐竜が好きな匂い」のする銀杏。煎るとなんとも言えない香ばしい匂いを立てる新そばの実。バターやシロップをたっぷりかけていただくほかほかのホットケーキ。『なぎさだより』の頁をめくっているとなんだかお腹が空いてくるし、生きているっていいなあと思えてくる。
 橋出さんは、世間で言うところの、いい意味での「変人」かもしれないと思う。例えば、「何でも冷やすのが好き」という橋出さんが、

子どもの頃、夏休みになると、寝る前に筆箱や下敷きをこっそり冷蔵庫の隅に入れた

という事実。

翌朝、キンキンに冷えたそれらを手にすると、気の進まぬ宿題も頑張る気になる

のだという。こんなにもユニークな夏の楽しみ方があったとは!
 そんな橋出さんの日常は、もちろん、予定調和ではない。予想を超えた先に、なんとも言えない人生の奥行き、味わいが生まれる。アメリカに留学する娘さんに、小津安二郎監督の名作を見てもらおうと思うけれども、伝わりきれない。拾得物の「お礼」をめぐるぎこちないやりとりと、その後の意外な結末。何十回も行ったはずの「なぎさホテル」のプールに水が入っていた記憶がないという気づきから始まる心の旅。橋出さんの随想は、「ずれ」や「予想外」があるからこそ、人生は楽しく、味わい深いのだということを教えてくれる。
 詩的で繊細な感性で日常をとらえる橋出さんだが、その実、一本筋が通っている。「生きる」ことや、「人間」であることについての揺るがない価値観がある。そんな一面は、やたらと「勝ち組」「負け組」に分類したがる世間に対して、自分は「負けじ組」だと書くその矜持にも表れているだろう。だからこそ、橋出さんの文章から伝わってくる人生観、生命観には説得力があり、読者自身の生きる力にもなる。
 人工知能が人間と表面上は遜色ない文章を生み出せる今、だからこそ、言葉に自分の個性を込めることが大切になってきている。誰のものでもない、自分だけの言葉で生きることの実感を捉えることができたら、それは本人にとってはもちろん、読者にとっても最高の幸せになるのではないだろうか。
『なぎさだより』は、卓越したエッセイストによる、人生の機微をとらえた最高の「幸福論」である。読者は、この一冊からそれぞれの生活の現場で生きる実感を深め、自分らしい幸せをつかむためのヒントを得られるだろう。
 みんな違ってみんないい。橋出たよりさんの幸せのあり方にふれることで、共感し、動かされ、自分自身の幸せへの道が見つかるはずだ。

WEB第三文明 書評『なぎさだより』――アタシは「負けじ組」の組員だよ


『なぎさだより──〈逗子・葉山・鎌倉〉暮らし歳時記』
橋出たより

価格 1,870円(税込)/第三文明社/2023年2月22日発売

⇒Amazon
⇒セブンnet
⇒紙版・電子版(第三文明社 公式サイト)

茂木健一郎 関連記事:
書評『人間主義経済×SDGs』――創価大学経済学部のおもしろさ
書評『科学と宗教の未来』――科学と宗教は「平和と幸福」にどう寄与し得るか
茂木健一郎の人生問答~大樹のように 「東京五輪の聖火リレーを見て何を考えるか」
【2014新春座談会】日本・韓国・中国のこれからを語る
【2013年新春鼎談】つながる社会――日本の進むべき道を語る


茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)●1962年、東京都生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所などを経て、現在、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。専門は脳科学、認知科学。「クオリア」をキーワードに脳と心の関係を研究するとともに、 文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞、『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞。『クオリアと人工意識』(講談社現代新書)『脳を活かす勉強法』(PHP文庫)など、著書多数。