第18回 体相①
次に十広の第三章「体相」の章では、本体としての真理の奥深いことを認識するために、第一に教相、第二に眼智、第三に境界、第四に得失の四段によって「体」を明らかにする。この四段が示される理由については、次のように説明されている。
夫れ理は教に藉(か)りて彰わる。教法は既に多ければ、故に相を用て顕わす。入理の門は同じからざるが故に、眼・智を用て顕わす。諦に権実有るが故に、境界を用て顕わす。人に差会(しゃえ)有るが故に、得失を用て顕わす。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)254頁)
理=体は教によってあらわれるが、教法は多いので、教相によって理をあらわすこと、理に入る門は相違するので、眼・智によってあらわすこと、諦(理)に権・実があるので、境界によってあらわすこと、人に差違性・同一性があるので、得失によってあらわすことが示されている。以下、順に紹介する。
[1]教相によって体を顕わす
この段は、次第の教相と不次第の教相に分かれ、前者はさらに拙度と巧度(ぎょうど)に分かれる。天台教学では、次第は段階的であるという意味で、蔵教・通教・別教などの立場を指し(とくに別教を指す場合が多いが、ここの記述では三教を指している)、不次第は円教を指す。
まず拙度の止観について説明している。凡夫の止と観は、生死を免れず、有漏を特徴としていると指摘している。二乗のさまざまな事禅(具体的な事柄を対象として行なう禅)は、一応は止の様相であり、有作の四諦の智慧は、一応は観の様相であるが、この止観は蔵教の拙度であると規定される。また、無余涅槃に入って、身も心=智もまったく無に帰す灰身滅智(けしんめっち)を理想とするので観と名づけることはできない。ただ諸法を分析するという無漏を特徴としていると指摘している。しかし、今、論じる対象ではないと排除している。
次に、巧度の止観(『輔行』によれば、空観、仮観、中観を順番に修する次第三観を指す)について説明している。
巧度の止には、体真止(たいしんし)、方便随縁止(ほうべんずいえんし)、息二辺分別止(そくにへんふんべつし)の三種がある。
第一に体真止の「体」は体得するという動詞の意味であり、「真」は空という意味である。つまり、諸法の空を体得して、対象を認識することや妄想が止息することを体真止という。
第二に方便随縁止について、「方便」に関しては、二乗が真を体得する場合、方便を用いないけれども、菩薩が仮に入る場合は、正面から方便を行じ用いるべきであるとされる。空は空でないと知るので方便という。「随縁」とは、薬と病を区別して認識することである。心を俗諦に安んじるので、止と名づけるといわれる。
第三に息二辺分別止とは、俗は俗でないと知れば俗辺(俗という極端な立場)は静まり、また非俗を得なければ空辺(空という極端な立場)も静まり、俗辺と空辺の二辺を区別すること(分別)を止息させることができる。智顗(ちぎ)によれば、この三止の名は経論には出ていないけれども、次にみる三観に相対して、理論的な要請として名づけたもので、このような三止の名を設けることには問題がないと弁明している。
次に、巧度の観にも従仮入空観(じゅげにっくうがん。二諦観)、従空入仮観(じゅぐうにっけがん。平等観)、中道第一義観の三種がある。この三観の名称は『菩薩瓔珞本業経』の「三観とは、従仮名入空二諦観、従空入仮名平等観なり。是の二観は方便道にして、是の二空観に因って、中道第一義諦観に入ることを得。双べて二諦を照らし心心寂滅にして、進んで初地の法流水中に入るを摩訶薩聖種性と名づく。無相の法の中に中道を行じて無二なるが故なり」(大正24、1014中19~23)の文に基づいている。『菩薩瓔珞本業経』は、5世紀末に中国で撰述された経典であるが、三観、菩薩の階位、大乗の戒律などが説かれることから、とくに天台宗では重視された。
従仮入空観は、仮から空に入る観察の意であり、仮は破られるもので、空は用いられるものであり、破られる俗諦観と用いられる真諦観を合わせて論じるので、二諦観といわれる。実際には真諦観(空観)のみを用いている。これに対して、従空入仮観も、空から仮に入る観察の意であり、空を破って仮を用いる。ここにも破られる空と用いられる仮とがあるので、二諦観と呼ぶことも可能であるが、すでに従仮入空観に用いられた二諦観ではなく、よりすぐれた名称として、平等観という言葉を使うと説明している。破ることと用いることを等しく用いるので、平等観といわれる。必ずしも明確な説明ではないと考えられる。『摩訶止観』にはその他の説明も提示されている(※1)。
以上の巧度の止観は次第三観であるから、天台家で用いるものではないと批判され、最後に「不次第の教相」において、円頓(えんどん)止観について説いている。
円頓止観の対境は、円融の三諦である。空仮中の三諦が円かに融じ、三諦即一諦、一諦即三諦であるから、この対境との相関関係にある止観も、一止であるけれども三止、一観であるけれども三観であるのが、円頓止観であると規定される。
そして、この円頓止観の立場から、三止三観については、次のように説明されている。無明の顚倒が実相の真であると体得することを、体真止と名づける。このような実相がすべての場所に広く行き渡り、緑にしたがい境を経歴して、心を安らかにして動揺しないことを、随縁方便止と名づける。生死と涅槃がどちらも止息することを、息二辺分別止と名づける。また、すべての仮が残りなく空であり、空そのままが実相であると体得することを、入空観と名づける。この空をすらすらと理解するとき、観は中道に冥合し、世間の生滅の法の様相を知り、ありのままに見ることができることを、入仮観と名づける。このような空慧は中道であり、二つのものもなく別のものもないことを、中道観と名づける。
また、止と観のそれぞれの三義については、次のように説かれている。真を体得するとき、五住地惑(『勝鬘経』一乗章に出る、見一処住地惑・欲愛住地惑・色愛住地惑・有愛住地惑・無明住地惑の五種の煩悩)が一瞬に止息することを、止息の意義と名づけ、心が中道を対象として実相の智慧に入ることを、停止(じょうじ)の意義と名づけ、実相の本性は非止非不止の意義とされる。さらにまた、この一念が五住地惑を穿(うが)つことは観穿(かんせん)の意義であり、実相に到達することは観達(かんだつ)の意義であり、実相は観でもなく不観でもないとされる。
(注釈)
※1 『摩訶止観』には、おおよそ次のような説明が提示されている。二諦というのは、仮を観察することを空に入る手立てとし、空は手立て(空に入る手立て=仮)に基づいて空に合致する。能・所を合わせて論じるので、二諦観という。さらにまた、空に合致する日は、ただ空を見るだけでなく、また仮を知る。雲が除かれて障害を払い捨てれば、天空があらわれ、地上が明らかになるようなものである。真(空)に基づいて仮があらわれ、この二諦観を得る。今は仮に基づいて真(空)に合致する。どういう意味で二諦観でないであろうか。さらにまた、俗は破る対象であり、真(空)は用いる対象である。もし破る対象にしたがうならば、俗諦観というべきである。もし用いる対象にしたがうならば、真諦観というべきである。破・用を合わせ論じるので、二諦観という(『摩訶止観』(Ⅰ)260頁を参照)。
(連載)『摩訶止観』入門:
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