連載エッセー「本の楽園」 第163回 百冊で耕す

作家
村上政彦

 僕は小説家としてプロデビューしてから35年になるけれど、いまだに文章の書き方や読書の仕方についての本を読む。ひとつは、同業他社がどのような働き方をしているか知りたい好奇心、もうひとつは、まだ僕自身が気づいていないやり方があれば学びたいという向学心。
 結果として、たいてい文章の書き方の本は、あまり発見がない。ああ、同じことをやっているな、と市場調査で予想通りのデータが示されたという思いになる。読書の仕方についても、似たようなものだ。
 ところが、ここで取り上げる『百冊で耕す』は、ちょっとおもしろかった。僕は好きな作家の吉田健一が、300冊の蔵書しか持たなかったと知って、これは僕も実践しなければと思った。
 吉田健一の300冊であれば、とても貴重な本ばかりだろう。蔵書リストが見たいぐらいだが、それは叶いそうもない。そこで、吉田健一になったつもりで、少なくとも4~5000冊はある蔵書(それも日々、増え続けている)を必要な本だけに絞ろうと考えた。
 しかし、それほど深刻に考えたわけではなく、暇な時間ができたらやろうぐらいの、ゆるい「やろう」だから、なかなかとりかかれない。いつの間にか、もう数年は経ってしまって、蔵書は増えるばかりだ。
 そんなとき、本書に出会った。300冊ではない。100冊である。しかも、僕が何となくぼんやり考えていたことが、言葉になっているので、心強い。

 自分にとってのカノン(正典)百冊を選ぶために、そう、一万冊ほどは、(読むのではなく)手にとらなくてはいけないかもしれない。
 本書は、自力で百冊を選べるようになるための、その方法論のつもりで書いた。

 これは実践しない手はない。目次を見ると、冒頭、「速読の技法――本を精査するためのスキニング」とある。10000冊を手にとって、すべて読むのは大変だ。だから、精読するための本を選ぶために速読する。
 速読の方法も、音読せずに視覚で読む、日本語の利点を活かして漢字だけを追う、問題意識を持って探し読みをする、段落を読む、すきま時間で同時並行に読む、と具体的に書いてある。
 これはふだん僕もやっていることだ。ただ、すきま時間で同時並行に読む――偏食ならぬ偏読にならないよう、①海外文学、②日本文学、③社会科学か自然科学、④詩集、を15分ずつ読むというのは、参考になった。
 同時並行に読むのは、つねにやっているが、ジャンルを分けることは考えなかった。確かに、尊敬する先輩作家からも、文学だけではなく、サイエンスを読め、といわれたことがある。
 僕は典型的な文系脳なので、理系の本はほとんど読んでこなかったが、これでは知識ばかりか、ものの見方や考え方も偏ってしまう。大昔の知識人たちは、詩を書きながら、天文観測をしたり、数学をやったりしていた。だから、彼らは物事を重層的にとらえ、総合的に判断することができた。そこへ帰るということだ。
 うれしいことに、後段のほうには、この4ジャンルのカノンをしるした誰もが手にとれるガイド書が挙げてある。ぱらぱら見ると、すでに読んだものも多いが、読みこぼしているものもある。これは、ぜひ、読んでおきたいと思う。
 本書は、この後、図書館の使い方や、精読のときに本に紙片をはさんで登場人物の名前や人間関係をメモしておくと混乱しない、など極めて実践的な読書の仕方が書かれているが、近年の文学不要論に対しての反論もある。

 実社会に必要ないと考えられているそうした文学作品の〝効用〟とは、なんだろう。

 考えること。
 疑問を持つこと。
 異議を申し立てること。

 世の中の常識とされていること、あたりまえと受け入れられている前提を、疑ってかかる。文学の役割とは、極言すれば、そこだ。

 国家や資本に求められる、考えない人間、にならないこと。自分の頭で立つことができようになること――文学は、そういう人間を養ってくれる。文学に限らない。古典として読み継がれてきた本、新しくても良書と評価される本が、そういう人間の養分になる。
 本書を読んで、盲点をつかれたおもいをしたのは、「抜き書き帳」のくだりだ。よく、本を読んだあとは、読書ノートをつけるといい、といわれる。僕も知識として知ってはいたが、面倒でやらなかった。
 ところが、作者は几帳面に「抜き書き帳」をつくっている。

本を読んでいて、ここは重要、忘れたくないと思った箇所を、手帳に書き写していく

 まず、傍線を引いて読む。そのなかでも重要だと思うところは、ドッグイヤー(ページの端を折る)をつける。さらに、その本を数か月寝かせておいて、ドッグイヤーをつけたくだりに、訴えてくるものがあれば、おもむろに書き写す。

抜き書き帳は、写本だ。自分のためだけに編まれた、究極のアンソロジーだ。

 百冊蔵書の究極は、100冊の抜き書き帳だという。それを読み返すことで、感情が育まれ、感性が磨かれ、思考が強靭になる。AIが小説を書こうという時代だ。人間にしかできない仕事をめざして、面倒がらずに抜き書き帳をつくろう。
 ちなみに巻末には、著者による「百冊選書」リストがある。あなたは、何冊読んでいますか?

参考文献:
『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』(近藤康太郎/CCCメディアハウス)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。