連載エッセー「本の楽園」 第161回 真のレジェンド

作家
村上政彦

 新聞やTVなどのメディアでは、レジェンドという言葉をよく見かける。けれど、本物のレジェンドは少ない。賑やかしの好きなマス・メディア特有の誇張だ。ただ、『遺言 対談と往復書簡』に登場する2人は、真のレジェンドである。
 志村ふくみは民藝の流れをくむ染織家、石牟礼道子は世界文学『苦海浄土』を著した小説家、詩人。この2人をレジェンドと呼ばずして、誰をレジェンドというか。
 往復書簡の企画は、志村が、長くつきあいのある編集者に、いまいちばん話したいのは石牟礼道子さんといったことから始まり、病にある石牟礼を気遣って、志村が熊本まで出向いて対談を行った。
 この間、石牟礼は新作能を構想していて、その衣装の染付を志村に依頼し、2人のあいだでは、能の脚本をめぐるやりとりも始まった。往復書簡は2013年の3月11日に始まり、2013年の5月30日まで続く。対談は2度。内容は、色と言葉についての含蓄ある思考に満ちているが、新作能の創作ノートの趣きもある。
 僕が意外だったのは、対談で明らかになった石牟礼の水俣での立ち位置だ。『苦海浄土』は、水俣病を告発すると同時に、患者たちの、悲しく、美しい、生をとらえて、いのちの深部に達した文学となっている。
 それが地元では、あまりよく思われていなかったらしい。

 水俣では、本屋さんは私の本を、隠して売っていたんですよ。よそから来た人が「本屋さんに行って、ご著書を買おうと思ったんですけれど、ありませんでした」っておっしゃるんです。水俣の本屋にはどこにも置いてないって。仕方ないと帰りかけると、ちょっと待ってください、奥のほうにありましたって、追っかけてきて、買ってくださいと言って。

 長いあいだ、そのような状態が続いていたという。僕は間実を知ったとき、預言者故郷に容れられず、という諺をおもいだした。真実を明らかにする人は、時としてよく思われないものなのだ。
 けれど、歳は志村のほうがいくつか上だが、彼女は石牟礼に対して、特別な敬意を持っている。それは染織家という仕事にもかかわりがあるようだ。染織家は自然を相手にしている。いわば、いのちと向き合っている。石牟礼の文学と同じだ。
 いのちに向き合うという一点で、2人は並んでいる。志村は色を通して、石牟礼は言葉を通して、いのちを表現する。志村はエッセイなど文章も書くが、そのために石牟礼の言葉の重みが分かるのだろう。石牟礼の新作能では、色と言葉の共同作業が行われる。
 本書には、新作能「沖宮(おきのみや)」も収められていて(お得!)、筋を読むことができる。主人公は、天草四郎。島原の乱も終わり、四郎はもうこの世の人ではない。やはり亡くなった乳母の娘・あやは、天草下島の村長に預けられた。
 折から村では旱魃が起こり、雨乞いの話が持ち上がる。生贄に選ばれたのは、あや。少女は緋色の衣を着せられ、舟で海へ出る。人々はその姿を伏し拝む。はら、はらと雨が降り始め、雷鳴がとどろき、稲妻がはしり、いつかあやは消えていた。村の女房頭がつぶやく。

 あやしゃまは、沖宮の美(よ)かところにゆかれしや。
 むごきこの世に生きるより、いのちたちの大妣君(おおははぎみ)のおらいます沖宮に行くがよい。あな、かなしや。
 四郎どのは、あやしゃまを迎えに参られたまいしや

 そして亡き四郎とあやの道行きが始まる。
 石牟礼が、この道行きについて述べている。

「沖宮の、終わりの場面は、死ぬんじゃないんですよ。「沖宮」というのは命の生まれるところ。(中略)沖宮に行くのは、死にに行くんじゃない。生き返るための道行きなんですよ

 このとき、あやに鮮やかな緋色の衣を着せたい。それを染めて欲しいと石牟礼は依頼し、万事を呑みこんだ志村が染付をする。これぞ、レジェンドたちの仕事である。
「沖宮」、ぜひ、観てみたい。

おすすめの本:
『遺言 対談と往復書簡』(志村ふくみ、石牟礼道子/筑摩書房)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。