『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第14回 修大行(3)

[1]四種三昧③

非行非坐三昧③

②悪に焦点あわせる

 悪を論じるにあたり、六蔽を悪としている。六蔽は、六波羅蜜を妨げる六種の悪心のことで、慳心(貪欲)・破戒心・瞋恚心・懈怠心・乱心・癡心をいう。これに対して、六波羅蜜が善と規定される。しかし、これは一応の定義であり、善と悪は相対的なものであることを説いている。たとえば、二乗が苦を脱却することは善であるが、自利のみの立場に制限されているので、慈悲に依って広く衆生を救済する蔵教の菩薩に比較すると悪となると説かれる。このような比較によって善悪の相対性が示されるのであるが、結局は円教のみが善と規定されて、次のように説かれる。

 唯だ円の法のみを、名づけて善と為す。善く実相に順ずるを、名づけて道と為し、実相に背くを、非道と名づく。若し諸の悪は悪に非ず、皆な是れ実相なりと達せば、即ち非道を行じて仏道に通達す。若し仏道に於いて著を生ぜば、甘露を消(しょう)せず、道も非道と成る。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)196~198頁)

と説かれている。適確に実相に従うことを道と名づけ、実相に背くことを非道と名づけ、悪も固定的実体的な悪ではなく、空でありすべて実相であると理解すれば、『維摩経』巻中、仏道品に、

 爾の時、文殊師利は維摩詰に問うて言わく、菩薩は云何んが仏道に通達するや。維摩詰は言わく、若し菩薩は非道を行ぜば、是れ仏道に通達すと為す(大正14、548下29~549上2)

と説かれるように、非道を行じて仏道に通達する。逆に、もし仏道に対して執著を生ずれば、甘露(かんろ)を消化せず、道も非道となると説かれている。
 次に個別的に悪について非行非坐三昧を行なうことを説明している。凡夫の現実は、六蔽の悪心が満ちているので、凡夫にとっては、この説明は重要である。
 はじめに、仏の在世にさまざまな悪を行なった央崛摩羅(おうくつまら)や提婆達多などの仏弟子も最終的には覚りに達したことを取りあげて、悪は道を妨げないことを指摘している。その理由は、悪のなかに道があるので、六蔽を行なうけれども、聖人となることができるとされる。また、逆に道は悪を妨げないとされる。煩悩があるからこそ、それを観察して覚りへ向かうことが可能になるのであるから、覚りへの道は悪を妨げないと説かれる。
 次に、悪の代表として六弊のなかの貪欲(慳心)を取りあげ、その四種の様相として、未貪欲(まだ貪欲しないこと)・欲貪欲(貪欲しようとすること)・正貪欲(まさに貪欲しつつあること)・貪欲已(貪欲したこと)を取りあげ、四運推検によって、その空であることを認識することを説いている。
 また六蔽は、どのような塵(境)によって生起するのか、何の目的のために生起するのかなど、種々に考察検討される。結論として、六蔽と法性(仏教の真理)の相即的関係を指摘し、六蔽は法性であるので、六蔽が生起すれば、すぐに法性が生起し、六蔽が止まれば、すぐに法性が止まることを知るべきであると説く。
 そして、『諸法無行経』巻下、

 貪欲は是れ涅槃なり。恚癡(いち)も亦た是の如し。此の如き三事の中、無量の仏道有り。若し人有りて分別せば、貪欲・瞋恚・癡は、是れ人の、仏を去ること遠し。譬えば天と地との如し。菩提と貪欲は、是れ一にして而も二に非ず、皆な一法門に入り、平等にして異なり有ること無し(大正15、759下13~18)

を引用して、いわゆる煩悩即菩提(この引用文にはこの表現そのものは出ていないが、内容的には同じである)いう大乗仏教の究極的な思想を提示している。
 瞋の蔽についても、同様に説いているが、説明は省略する。

③無記に焦点をあわせる

 善と悪について、それをきっかけとして非行非坐三昧を行なうことを説明してきたが、善でもなく悪でもない無記(非善非悪)も、これをきっかけに非行非坐三昧を行なうことができることを説いている。無記が善・悪と異なるのか、同じなのか。同じであれば、無記ではないし、異なるならば、善・悪の記が消滅して無記が生じるとするのか、記が消滅しないで無記が生じるのか、記が消減もし消滅もしないで無記が生じるのか、記が消滅するのでもなく消滅しないのでもなく無記が生じるのかなど種々に考察検討して、空であることを認識することを説いている。また、無記は法性であり、法性が常に静寂であるのは止の意義であり、静寂でありながら常に照らすのは観の意義であると説かれている。
 次に、ただ善に焦点をあわせて随自意三昧を明らかにするのは、漸次止観の立場であり、善悪ともに随自意三昧を明らかにするのは、円頓止観の立場であり、いずれとも定まらない善に焦点をあわせて随自意三昧を明らかにするのは、不定止観の立場であることが示されている。

④四種三昧についての問答考察

 以上、四種三昧について説明してきたが、最後に、四種三昧に関する三つの問答が示されている。まず問答の前に、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧は、具体的な修行方法が規定されているが、非行非坐三昧にはそのような方法はないこと、しかしながらこの四種三昧はすべて理観(実相の理を觀察すること)であることについて共通であることを示している。
 では、三種の問答を順に紹介する。まず、第一の問答は、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧のそれぞれについては勧修(修行を勧めること)が示されていたが、非行非坐三昧については勧修が説かれていないのはなぜかという問題に関するものである。
 六蔽の非道は解脱道であるけれども、鈍根で重い障礙のある者は、六蔽の非道が解脱道であることを聞いて堕落するし、そのうえ修行を勧めれば、ますます悪くなってしまうと答えている。具体的な例として、智顗(ちぎ)当時の仏教界の情況が指摘されている。
 淮河(わいが)の北で大乗の空を実践していた人の例を取りあげている。その修行者は善法について観察することが長く経過しても徹底しなかったが、心を解放して悪法に対して観察をすると、少し禅定の心を獲得して、空に対する理解を少し生じた。そこで、人々の能力・条件を認識もせず、仏の心を理解もしないで、この法だけをひたすら人々に教えた。教えられた者のなかの一人、二人は利益を得た。これはあたかも虫が木をたべて、偶然に文字になったようなものであり、けっして虫が文字を知っていたわけではない。しかし、彼はそのままそれを証拠として、自分の覚りは真実であり、その他は噓であるとし、戒を守って善を修める者を笑って非道といい、ただ人々に教えて広く多くの悪を行なわせた。その教えを受けた者は、是非を区別せず、精神的な能力は鈍く、煩悩はそのうえ重く、その説く内容を聞き、その欲情に随順し、みな信じ服し、付き従って、戒律を放り捨てて、あらゆる過ちを行ない、罪を山のように積み、とうとう万民に仏法を草のように軽視させ、国王、大臣はそれに基づいて仏法を消滅させた。毒気が体内に深く入って、今に至るもまだ改まらないのである。
 智顗は、さらに北周武帝(在位560-578)の廃仏に暗躍した還俗僧、衛元嵩(えいげんすう。生没年不詳)に対して、仏法を滅亡させる妖怪であると厳しく批判している。武帝は、儒教重視の政策を採用し、外国の宗教としての仏教には冷淡であった。また、北斉を討伐するために富国強兵策を採用し、その一環として、ついに仏教を廃絶するに至った。出家者の増大は、税収、労働力、軍人、人口の減少をもたらし、また寺院仏閣、仏像の建設のために莫大な費用がかかり、生産労働に従事しない沙門(出家者)のために莫大な生活の経費がかかるなど、国家財政に対して重い負担となっていたので、仏教界は粛正の憂き目にあったのである。
 この武帝の廃仏に理論的根拠を提示した者が、衛元嵩であった。彼は、565年、廃仏の上書を提出し、出家仏教が世俗を超えるという考え方は小乗仏教的なあり方であり、真の大乗仏教を興隆するためには、寺院と僧侶を全廃して、一つの平延大寺を建てるべきである、しかし、現実の国家そのものが寺院であるから、実際の寺院は必要がない、皇帝こそ現在の仏であるから、仏像も必要がない、全国の都市村落が僧坊であり、仲むつまじい夫婦が聖衆であり、大臣将軍が大徳であり、生産に励む人民が僧衆であるなどと主張した(※1)。このような徹底的な出家仏教不要論を説いたのである。
 しかし、それにもかかわらず、悪について非行非坐三昧を説く意図は、仏が衆生の機根を見て、ある種の衆生は最低で、善行が少なく、善のなかで道を修行することがけっしてできず、もし気ままに悪行をさせれば、いつまでも流転して止まないことを知って、貪欲において止観を修行させるのであり、これはどうしてもやむを得ないので、このように説いたのであると示している。
 そして、常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧については修行が難しいので、修行を勧めることが必要であるが、非行非坐三昧は、修行のきっかけ自体は日常的な行為に基づくので容易であり、その点で、修行を勧める必要はないと答えている。
 第二の問答は、中道正観の一つで修行は十分であるはずなのに、なぜ複雑な四種三昧を修行する必要があるのか、善・悪をきっかけとしたり、六受・六作をきっかけとする必要があるのかという問題に関するものである。これについては、人々の機根は多様であり、煩悩もさまざまであり、それに適合する修行方法もさまざまであると答えている。
 第三の問答は、善は理を助けるので、止観を修行することができるが、悪は理に背いているので、どうして止観を修行することができるのかという問題に関するものである。人々のさまざまな機根を分類して説明しているが、結論として、善は理を助けるけれども、道(覚り)は止観によって得られ、悪は理に背くけれども、能力が鋭ければ、煩悩によって遮られることを破ることができること、ただ道だけが尊いのであり、どうして悪のために止観を廃すことができるであろうかと説いている。
 これで、五略の第二、修大行の説明を終える。

(注釈)
※1 衛元嵩の上書の原文は、『広弘明集』巻第七(大正52、132上~中)を参照。藤堂恭俊・塩入良道『アジア仏教史中国編Ⅰ 漢民族の仏教』(佼成出版社、1975年)186-187頁を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。