エッセイ風な淡々とした文章から重くて怪しいテーマが漂う
堀江敏幸(ほりえ・としゆき)著/第124回芥川賞受賞作(2000年下半期))
力みのない静かな文体
W受賞となった第124回芥川賞のもう一つの受賞作は、堀江敏幸の「熊の敷石」だった。『群像』に掲載された約117枚の作品。
かつてフランスに留学し今は日本でフランス文学関係の仕事をしている主人公の「私」が、フランスを再訪しユダヤ系友人と久しぶりに連絡を取り、ノルマンディー地方の小さな村で再会する話だ。そこでは、何か特別な事件や物語展開があるわけではない。淡々と静かな筆致で二人のやり取りなどが描かれている。
その文章は、隙がなく、力みもなく、静けさを漂わせながら知性を匂わせる。だが、物語展開があまりにも少ないので引き込み力がなく、長いエッセイを読んでいるような感覚になる。小説の醍醐味が物語性だとすれば、あまりにも淡々として熱量がなさすぎる。
ラストシーンが近づくにつれて、それまで積み上げてきた伏線などがどのように劇的に結実していくのだろうかと期待をして読み進むのだが、最後まで淡白と進み静かに終わり、食いたりなさが残ってしまった。もう一度読み返せば、表には浮かび上がってこなかった重くて大きな何かが感じ取れる気配を感じたが、再読する気力は湧いてこなかった。
ただ、「何かある」と思わせるものが確かにあって、そのあたりが選考委員の意見を真っ二つに分けたようである。
まずは低評価の選考委員の意見から。三浦哲郎はこうだ。
この作品はあまりにもエッセイ風で小説としての魅力に乏しかった。小説の文章には、もうすこし艶と色彩と体温がなければならない。取り澄ましてばかりもいられないのである
池澤夏樹はこう言う。
言ってみれば破綻だらけだ。エッセイから小説になりきっていない。細部がゆるい。タイトルに魅力がない
宮本輝はこう述べる。
作品の主題なのかどうなのか、熊の敷石なるものも、私には別段どうといったことのないただのエスプリにすぎないのではないかという感想しか持てなかった
河野妙子は厳しい。
彼らの会話、幾つものエピソード、食事や風景のこと、いずれもエスプリもどき、知性まがいの筆触しか感じられない
大げさな出来事を入れればいいというものではないけれども、最後まで読み手を飽きずに引っ張っていく力があってこそエンターテインメントとしての小説の魅力なはずだ。そうしたものだけに頼った作品は、芸術性を失うというリスクはあるにしろ、エンターテイメント性を放棄したものにはどうも魅力を感じない。
淡々とした文章で重いものが浮かび上がらせる
評価をする選考委員は、真逆だった。日野啓三はこう評価する。
日本とフランスの繊細で孤独な若者ふたりが、フランスの田舎町で久しぶりに再開して、とりたてて事件もない短い時間を過ごす、という内容だが、よく見ると、(中略)、人間の心のゆがみや人間同士の関係のずれで偏光する精神の微妙な光も射しこんでいて、緻密に感じとるとなかなか複雑で不気味でさえある非凡な作風なのであった
池澤夏樹は、批判もしつつ評価もしている。
内奥にはなかなか凄いものがある。ヨーロッパ人の思考法の精髄をさりげなく取り出して並べる手つきがいい。軽い展開の中に重い原石が散りばめられている
黒井千次はこう述べる
人と人との関わりの内にある微妙な温もりを知的な言葉で刻み込もうとした大作品であるといえよう。民族の歴史の孕む必然と個々の偶然との織り成す人間の生の光景が、幾つものエピソードを通して浮上する
アウシュヴィッツのこと、生まれながらに目のない子どもを持つ母親など、引き込み力の強い話はたくさんあるのだが、深追いせず静かにサラリと小さく置くだけなのだ。しかし逆にそうした手法が、何か複雑で不気味なそして重いものを、はっきりとした輪郭を持たずにぼんやりと浮かび上がらせてくる、ということだろうか。
堀江敏幸は、その後、川端康成文学賞、谷崎潤一郎賞、読売文学賞、伊藤整文学賞、野間文芸賞など数多くの文学賞を受賞し、活躍している。その事実を見れば、その才能を見抜いていた選考委員の目が正しかったという言い方もできるかもしれない。
「芥川賞を読む」:
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