『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第12回 修大行(1)

[1]四種三昧①

 前回までで第一章の大意の中の第一の発大心の説明が終わった。次に第二の修大行を説明する。
 ここでは、常坐、常行、半行半坐、非行非坐の四種三昧(※1)を説いている。これらの名称は、修行の際の身体の形態(身儀)に基づいたものであり、内容的には、順にそれぞれ一行三昧、仏立三昧、方等三昧・法華三昧、随自意三昧と呼ばれる。『摩訶止観』では、それぞれの三昧について、身の開・遮(許可と禁止)、口の説・黙(説法と沈黙)、意の止・観(止と観)という具体的な修行の方法を示し、さらに、修行を勧める段が設けられている。
 人間の行為全般を、仏教では行・住・坐・臥の四種に分けることがある。行は歩むこと、住は立ち止まること、坐は座ること、臥は横になることである。このなかで、四種三昧は、行と坐を選んでいる。坐は坐禅に相当する。行はたとえば仏像の周囲を歩むことを意味する。この坐と行を折衷したものが半行半坐であり、坐と行に限定されない、その他のあらゆる日常の行為が非行非坐と呼ばれる。この四種三昧は、現在も日本天台宗の一部では修行されており、それについての報告も読むことができる(※2)
 では、四種三昧について、順に簡潔に説明する。

常坐三昧

 第一に、常坐三昧は、『文殊説般若経』、『文殊問般若経』に拠るといわれる。身の開遮とは、坐を許可し、他の行・住・臥を禁止することである。具体的には、一つの静かな部屋、あるいは人里離れた静かな場所にいて、さまざまな騒がしい場所を離れ、一つの縄の腰掛けを置いて、側(そば)に他の座席がなく、九十日を一定の期間として足を組んで座る。首と背をまっすぐにして、動かず揺れず、ぐったりせず、よりかからず、座ることを自ら誓い、あばらを腰掛けで支えない。まして死体のように横になったり、歩き回って戯(たわむ)れたり、立ち止まったりすることはなおさらしてはいけない。経行(食後や、疲労をおぼえたとき、坐禅していて眠気を催したときなどに、身心を整えるために、一種の運動として静かに散歩すること)と食事と排泄を除く、などと説かれている。
 口業の規定については、黙が中心であるが、もし座って疲れがひどくなり、あるいは疾病によって苦しめられ、あるいは睡眠の煩悩に覆われ、内外の障害が侵入して、正念の心を奪い、捨て去ることができなければ、ひたすら一仏の名前を呼び、慚愧(ざんぎ)し懺悔(さんげ)して、命を仏に自ら帰すべきである、などと説かれている。
 意業の規定については、きちんと座って正念する。悪覚(悪い心の粗雑な働き)を除去し、さまざまな乱れた想念を捨て、思索をまじえることなく、ものごとの固定的な特徴を取らず、ただひたすら法界を認識の対象とし、法界全体を想念し、その想念が法界と一致するようにさせる。すべての法はみな仏法であると信じて、静まりかえった法界に安らかに身を置く、などと説かれている。
 修行を勧める段では、常坐三昧の功徳を取りあげて、この修行を勧めている。

常行三昧

 第二に、常行三昧は、『般舟三昧経』に拠るものである。この経は、四種の漢訳とチベット訳が現存しているが、最初の漢訳は支婁迦讖訳『般舟三昧経』三巻といわれる。般舟三昧とは、十方の現在仏がすべて修行者の前に現前する三昧という意味である。廬山慧遠(ろざんえおん、334-416)は、402年7月28日、廬山東林寺の坐禅思惟の道場であった般若台の阿弥陀仏像の前で、僧俗百二十三人の念仏結社の誓約をなした。この念仏結社は、支婁迦讖訳『般舟三昧経』に基づくもので、阿弥陀仏を本尊とする念仏三昧を実行し、見仏、浄土往生を目指すものであった。唐代以降、慧遠は中国浄土教の開祖の地位を占めるようになった。
 さて、般舟三昧は、『摩訶止観』では、「仏立三昧」とも呼ばれている。仏の威力、三昧の力、行者の過去世の功徳の力の三種によって、禅定中に十方の現在の仏が行者の前に立つことが観察されるので、仏立三昧と呼ばれると説かれている。
 この三昧は、阿弥陀仏の信仰を中心とするものである。身については、悪知識や愚かな人・親戚・郷里を避け、常に一人だけで留まって、他の人に望んで、求めるものがあってはならない。常に乞食して、個別的な食事の招待を受けてはならない。道場を装飾してさまざまな供物・おいしい料理・甘い果物を備え、その身を沐浴し、用便の出入りには、衣服を着替える。ただひたすら歩み巡って九十日を一期とする、などと説かれている。
 口の説・黙については、「九十日、身に常に行じて休息すること無く、九十日、口に常に阿弥陀仏の名を唱えて休息すること無く、九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息すること無し……但だ専ら弥陀を以て法門の主と為すのみ。要を挙げて之れを言わば、歩歩(ぶぶ)、声声(しょうしょう)、念念、唯だ阿弥陀仏に在るのみ」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)136~138頁)とある。慈覚大師円仁(えんにん、794-864)が比叡山に常行三昧堂を建立し、これが日本浄土教の母胎となったのも、『摩訶止観』の常行三昧の影響によるものである。
 意の止・観については、「西方の阿弥陀仏は此(ここ)を去ること十万億の仏刹(ぶっせつ)にて、宝地、宝池、宝樹、宝堂に在りて、衆(もろもろ)の菩薩の中央に坐して経を説くを念ず。三月、常に仏を念ず」(『摩訶止観』(Ⅰ)138頁)とある。阿弥陀仏が極楽浄土で説法する姿を観照することを説いている。

半行半坐三昧

 第三に、半行半坐三昧には、『大方等陀羅尼経』に拠る方等三昧と、『法華経』普賢菩薩勧発品、『観普賢菩薩行法経(普賢観経)』に拠る法華三昧の二種類がある。方等三昧については、『国清百録』巻第一に「方等懺法」が収められている(大正46、796中22~798下8)。また、法華三昧の説明の中では、身の開・遮と口の説・黙については、天台の著作、『法華三昧行法』に譲るとあるが、この著作は、大正46巻所収の『法華三昧懺儀』であろうと推定されている。
 方等三昧については、閑静な場所において、道場を荘厳し、香泥を地や部屋の内外に塗り、円壇を作って色づけし、五色の旗ぼこを懸け、海岸香を焼き、灯火を燃やし、高座を敷き、二十四体の尊像を招く。多くとも同様に妨げがない。たくさんのお供え物を用意し、思いを尽くす。衣と履物を新しく清潔にする必要がある。新しいものがなければ、古いものを洗う。[道場を]出入りするとき、[衣や履物を]身につけたり脱いだりするのに、乱雑になってはならない。七日の長期にわたって斎戒を守り、一日に三回、洗浴する。初日に僧に供養することは、心のままに行なう。とくに一人の内外の律に精通した者に頼んで師とし、二十四戒、および陀羅尼呪を受け、師に向かって自己の罪を説く。月の八日と十五日を用いなければならない。七日を一期とするべきである。決して七日より減らしてはならない、などと厳格な修行の在り方が説かれている。
 安藤俊雄氏は、「この三昧には頗る密教的な色彩が濃厚で、事相の規定が厳重であり、且つ密呪を呪するところに異色がある」(※3)と評している。ただし、智顗(ちぎ)は、上に述べた具体的な修行について、その内面的象徴的な意味について一々指摘している。たとえば、香塗とは、無上の尸羅(しら。戒)である。五色の蓋とは、五陰を観察して子縛(自分を束縛する煩悩のこと)を免かれ、大慈悲を生じて法界を覆うことである。円壇は、実相の不動の境地である。絹の旗ぼこは、法界の上の迷いを転換して、動出の理解を生ずることである、などと説いている。
 次に法華三昧については、身については、第一に道場を清潔に荘厳すること、第二に身を浄めること、第三に身・口・意の三業によって供養すること、第四に仏を勧請(かんじょう)すること、第五に仏に敬礼すること、第六に六根によって犯した罪を懺悔すること、第七に仏像の周囲をめぐり歩くこと、第八に経を読誦すること、第九に坐禅すること、第十に実相を証得すること、と項目だけを列挙して、詳細は前述した『法華三昧懺儀』に譲っている。具体的な規定は省略するが、二十一日間の修行をすることが定められている。
 意の止・観については、『普賢観経』と『法華経』安楽行品のいずれにも有相三昧、無相三昧、あるいは事、理の両面が説かれていることを指摘し、しかもすばらしい覚りを得るときには、有相と無相、事と理はどちらも捨てられると述べている。また、法華三昧によって、普賢菩薩が六牙の白象に乗って出現するという体験についても、内面的象徴的な意味を与え、六牙の白象というのは、菩薩の汚れがない六神通である。牙に鋭い作用があるのは、通力がすばやいようなものである。象に大いなる力があるのは、法身が担うことを表わす、などと説いている。

非行非坐三昧①

 第四に、非行非坐三昧は、三昧を四門に区別するために設けられた一科で、実際には、行・住・坐・臥の四威儀のいずれをも自在に活用する三昧である。南岳慧思(なんがくえし)のいう随自意三昧であり(慧思には『隨自意三昧』という著作がある)、『大品般若経』の覚意三昧(智顗には『覚意三昧』という著作がある)である。この非行非坐三昧は、諸の経に約す・諸の善に約す・諸の悪に約す・諸の無記(善でも悪でもない性質のもの)に約すの四門から考察されている。
 初めの諸経に約すというのは、諸経に説かれる行法の中で、常坐、常行、半行半坐の三種の三昧に包摂されないものは、すべて非行非坐三昧に包摂することを説いている。『摩訶止観』の本文では、特に竺難提訳『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経(請観音経)』に拠って解説している。智顗は幼少期から観音信仰を持っていたと伝えられるが、四種三昧の体系のなかに観音信仰を包摂したのである。『国清百録』巻第一には、「請観世音懺法」(大正46、795中16~796上3)が収められている。また、『請観音経疏』(智顗説・灌頂記とあるが、実際には灌頂作と推定されている)がある。
 後の三門は、善・悪・無記の三性の日常心を対境として止観を行ずるものである。これについては、次回に説明する予定である。(この項、つづく)

(注釈)
※1 四種三昧については、安藤俊雄『天台学』(平楽寺書店、1968年)186~208頁、関口真大『天台止観の研究』(岩波書店、1969年)160~162頁、新田雅章『天台実相論の研究』(平楽寺書店、1981年)30頁の註5、274~297頁などを参照。
※2 道元徹心編『天台―比叡に響く仏の声―』(自照社出版、2012年)所収の小林祖承「常坐三昧の体験を通して」(181~203頁)、高川慈照「常行三昧の体験を通して」(204~238頁)を参照。
※3 前掲書、安藤俊雄『天台学』193頁を参照。

(連載)『摩訶止観』入門:
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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。