『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第11回 発大心(5)

[5]六即②

名字即・観行即

 名字即(みょうじそく)については、

 名字即とは、理は即ち是なりと雖も、日に用いて知らず。未だ三諦を聞かざるを以て、全く仏法を識らず。牛羊(ごよう)の眼の方隅(ほうぐう)を解せざるが如し。或いは知識に従い、或いは経巻に従いて、上に説く所の一実の菩提を聞き、名字の中に於いて通達解了(つうだつげりょう)して、一切の法は皆な是れ仏法なりと知る。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)113~114頁)

とある。理即は、原理的に三諦、三智が備わっていても、まったく現実化していない。それに対して、名字即は、善知識(仏法を教えてくれる良い友人)や経典によって、知識としては三諦の名や一切法がすべて仏法であることを知っている。しかし、まだ知識にとどまっていて、実践修行の段階に入っていない場合をいう。
 観行即については、

 観行即の是とは、(中略) 必ず須らく心観明了にして、理と慧は相応し、行ずる所は言う所の如く、言う所は行ずる所の如くすべし。」(『摩訶止観』(Ⅰ)114頁)

とある。名字即が実践修行の段階にまだ入っていない段階をいうことはすでに述べた。この実践修行とは、止観のことであるから、心の観が明了になり、理とその理を認識する智慧とが相応合致して、行動と発言が一致するようにしなければならない。この位を観行即といっている。とはいっても、もちろん修行を完成した位ではなく、はじめて仏法を実践する位を指す。
 この観行即の位は、五品弟子位ともいわれる。『法華経』分別功徳品に基づいて、智顗(ちぎ)が立てた円教の位で、従来の菩薩の最も下の位である十信よりもさらに低い位として立てられた。智顗は臨終のときに、弟子たちに、自ら修行に専念できれば六根清浄位(菩薩の十信の位)に登ることができたが、弟子の教育のために五品弟子位にとどまったことを述べている(連載第2回ですでに述べた)。五品とは、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度(観心修行の傍らに六波羅蜜を修行する)品・正行六度(観心修行が進んだので、正面から六波羅蜜を修行すること)品のことである。

相似即・分真即・究竟即

 相似即については、

 相似即の是(ぜ)の菩提とは、其の逾(いよ)いよ観じ、逾いよ明らかに、逾いよ止、逾いよ寂なるを以て、射を勤むるに的(まと)に隣(ちか)きが如くなるを、相似の観慧と名づく。一切世間の治生産業(じしょうさんごう)は相い違背せず、所有(あらゆ)る思想・籌量(ちゅうりょう)は、皆な是れ先仏の経の中に説く所なり。六根清浄の中に説くが如し。(『摩訶止観』(Ⅰ)114~116頁)

とある。前の観行即より止観の実践が進んだ位であり、相似の観慧と呼ばれている。相似は、真実に相似したという意味である。観慧は、智慧によって理を観察することを踏まえた表現で、観察する智慧という意味である。十信の位、六根清浄位ともいわれる。すべての世間の生計を立てること・生業は、実相に背かないこと、『法華経』の修行者のあらゆる思索・考慮は、すべて過去仏の経のなかに説かれるものであることが述べられているが、このことは、『法華経』法師功徳品に六根清浄のなかの意根清浄を説く箇所に出ている。
 すなわち、『法華経』法師功徳品、「復た次に常精進よ、若し善男子・善女人は、如来の滅後に是の経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せば、千二百の意の功徳を得ん。是の清浄の意根を以て…… 諸の説く所の法は、其の義趣に随って、皆な実相と相い違背せじ。若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆な正法に順ぜん……是の人の思惟・籌量・言説する所有らんは、皆な是れ仏法にして、真実ならざること無く、亦た是れ先仏の経の中に説く所ならん」(大正9、50上18~29)を参照されたい。
 分真即(ぶんしんそく)については、

 分真即とは、相似の観力に因りて、銅輪の位に入る。初めに無明を破して仏性を見、宝蔵を開きて真如を顕わすを、発心住と名づく。乃至、等覚は、無明は微薄(みはく)にして、智慧は転(うた)た著(いちじる)し。(『摩訶止観』(Ⅰ)116頁)

とある。相似即の観の力によって、銅輪の位=十住の位に入り、最初に無明を破って仏性を見、宝蔵を開いて真如をあらわすことを、発心住と名づけている。発心住は、十住の第一初住の名前である。これが菩薩の不退転の位といわれるものであり、ここに到達すれば、これより下の位に退転することがなく、必ず成仏にまで到達するといわれる。
 引用文に「等覚」が出ているが、十住と等覚の間には、十行・ 十廻向・十地がある。等覚の次は、仏の位である妙覚となるので、ひとくちに菩薩の五十二位といわれるが、五十一位(十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚)が菩薩の位で、最後の妙覚は仏の位ということになる。
 なお、分真即とは、分証真実即の略であり、分分に(段階的に)真実を証得するという意味である。
 究竟即(くきょうそく)については、

 究竟即の菩提とは、等覚は一たび転じて、妙覚に入る。(『摩訶止観』(Ⅰ)116頁)

とある。等覚から妙覚に入った位が究竟即=仏である。

(連載)『摩訶止観』入門:
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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。