アゴタ・クリストフは、ハンガリーに生まれて、1956年のハンガリー動乱のとき、赤ん坊をかかえて、夫とともに祖国を脱出し、スイスへ亡命した。当時、彼女は21歳。そこからアゴタ・クリストフという作家が誕生するには、もう少し先のことだ。
幼いころからアゴタは本を読むのが好きで、お話をつくるのが得意だった。家がまずしかったので、14歳のときに寄宿舎へ入った。そこは「孤児院と少年院を足して二で割ったような施設」。ただし、国が無償で食事と住む場所を与え、学校へもやってくれる。
アゴタは、この寄宿舎で消灯の時間が過ぎても、街灯の明かりで本を読んで詩を詠んだ。お金を稼ぐために寸劇のシナリオを書いて、授業の合間に学校で見世物をやった。それはみなに歓迎されて、彼女は人を笑わせることがうれしかった。
祖国がソ連に占領されて、ロシア語が学校で義務づけられ、教師たちは生徒たちに教えるため、ロシア語の速習を強いられた。しかし彼らにロシア語を教える気持ちは生まれない。アゴタたち生徒も学ぶ気がなく、「国を挙げての知的サボタージュ」という「消極的レジスタンス」をした。
亡命先のスイスの町で使われていたのはフランス語だった。アゴタは読み書きはもちろん、しゃべることもできない、文盲となった。
まさにそのとき、わたしの闘いが始まった。その言語を征服するための闘い、長期にわたる、この懸命の闘いは、この先も一生、続くだろう
アゴタはフランス語を学び、まず、いくつか戯曲を書いた。それはアマチュアの役者たちによって、カフェや小さな劇場で上演された。知人の助言で原稿をラジオ局へ送った。するとプロの役者によって演じられ、彼女には著作権料が支払われた。
彼女は、子供時代の思い出を短い文章にして、一篇ずつ書き始めた。二年後にはそれが一冊の本が出版できるほどの分量になった。推敲して、タイプライターで清書し、また、推敲して、タイプライターで清書し、人の眼に触れてもいい出来となった。
しかし原稿をどうしていいのか分からない。また、知人が助言をくれた。まずは、フランスの大手出版社(ガリマール、グラッセ、スイユ)に送るべきだと。ガリマールとスイユからは、断りの書面と一緒に返送されてきた。
このとき、アゴタは気落ちするよりも、「驚いた」(これには僕も驚いた!)。作品に絶対の自信を持っていたのだ。そして、スイユ社から電話があった。これは見事な小説だ、ぜひ、出版したいと。
こうして、アゴタ・クリストフの『悪童日記』は世に出た。40以上の言語に翻訳されて、世界的なベストセラーとなった。
人はどのようにして作家になるか?
まず、当たり前のことだが、ものを書かなければならない。それから、ものを書き続けていかなければならない。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人が一人もいなくても。たとえ、自分の書いたものに興味を持ってくれる人などこの先一人も現れないだろうという気がしても。たとえ、書き上げた原稿が引き出しの中にたまるばかりで、別の原稿を書いているうちに前の原稿を忘れてしまうというふうであっても
また、アゴタはフランス語を「敵語」という。
この言語が、わたしのなかの母語をじわじわ殺しつつある
それでも彼女は、フランス語で書く。
この言語を、わたしは自分で選んだのではない。たまたま、運命により、成り行きにより、この言語がわたしに課せられたのだ。
フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う。
そう、ひとりの文盲者の挑戦なのだ
アゴタ・クリストフは、実に勇敢な作家である。
お勧めの本:
『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』(アゴタ・クリストフ著/堀茂樹訳/白水社)