連載エッセー「本の楽園」 第149回 小説を書くことの分からなさ

作家
村上政彦

 人は、なぜ、小説を書くのだろうか。僕は、かつてある新聞社のカルチャー教室で小説の書き方を教えていたことがあった。受講生は、だいたい中高年が多い。男女の比率は同じぐらいだ。
 そのなかでも、印象に残っている人が何人かいて、その一人が80代もなかばの女性Aさんだ。子供のころから本を読むのが好きで、小学生のときには大人の読むような文学を手にしていて、母親からとがめられた。
 本当は、ずっと小説を書きたかったのだが、機会がなくて年老いてしまい、このままでは死ねない、とこの教室を訪れたという。

先生、私の書いた小説を棺桶に入れてくださいますか?

 この言葉は忘れられない。
 プロの小説家と言われる人でも、小説を書くのが楽しくてしようがない、という話は、あまり聞かない。逆に苦痛だ、辛い、という人のほうが多い。デビューする前は、どうしても書きたかった小説が、書かなければならない仕事になると、そうなる。
 でも、本当に筆をおいてしまう人は、ごく稀だ。嫌だ、嫌だ、と言いながら、一作書き終えると、次の小説に取りかかっている。ある小説家は、そういう性なのだ、と言っていた。
『カルチャーセンター』という小説は、なぜ、人が小説を書くのかを考えさせる作品だ。冒頭、カルチャーセンターの講師が、受講生の小説の意見を求める場面から始まる。語り手の「僕」は、26歳の大学院生で、マツナミタロウという。
 ここで『万華鏡』という作品が、合評の対象となる。評価は、毀誉褒貶相半ばするところ。語り手の僕は、新人賞をもらってもいい作品と高い評価を与える。それをきっかけにして、僕は作者のニシハラくんと話すようになり、彼から受けた刺激もあって、初めての小説を書いて提出する。
 その短篇『関誠』は、ひたすら回転寿司に言及する作品で、受講生の評価は高くない。その夜、僕はアパートにニシハラくんを招いて、いっしょに呑む。ニシハラくんは、どうしてオブセッションを書いたのか? と迫る。しかしあの小説を読んでうれしかったともいう。そこへ、講師やほかの受講生もやってきて宴が始まる。
 講座の最終回で、受講生の1人が評論で賞をもらったと報告する。みなで授賞式に出向いて、その席で、講師が、ニシハラくんにひそひそ話しかけているのを見た僕は、どうやら彼が新人賞に落ちたらしいことを知る。
 場面は変わって、僕は彼女とデートで待ち合わせるが、気乗りがせずに帰る。僕はすでに小説の新人賞をもらって、作家デビューを果たしていた。そこへニシハラくんの声が聴こえ、僕は彼と話し始める。
 時間はさかのぼり、先生からのメールが挿入される。ニシハラくんが自死したと。ついで、遺作となった『万華鏡』が挿入される。それはスーパーの女性店員が、店にひそんでいた男を傘で刺し殺し、正当防衛となるものの、精 神に異常をきたしてしまう物語。
 人称が揺れ動き、文字を絵のように使う、かなり前衛的な小説である。
 その後、『万華鏡』を読んだ、小説家、批評家、編集者などのコメントが挿入される。最後に、僕=マツナミタロウが、なぜ、『万華鏡』を世に出したかったかを告白する。
 小説家は、みな下積みの、誰も読者がいないところから出発する。新人賞をもらって、プロデビューできるのは、ほんの一握りの人だ。このコラムを書いている僕自身も新人賞をもらったのだが、幸運としか言いようがない。
 カルチャーセンターに通うのは、新人賞をもらってプロになるのが目的の人が多い。しかし僕が冒頭に書いた婦人のような人もいる。
 人は、どうして小説を書くのか? 本当のところは、誰にも分らない。

お勧めの本:
『カルチャーセンター』(松浪太郎/書肆侃侃房)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。