『摩訶止観』入門

創価大学教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第4回 序分の構成と内容(1)

 湛然(たんねん、711-782)の『摩訶止観』に対する注釈書、『止観輔行伝弘決』(しかんぶぎょうでんぐけつ、以下、『輔行』と略記する)によれば、『摩訶止観』の本文(正説分)の前に、灌頂(かんじょう、561-632)が書いた序分(縁起)が載っている。
 この序分の構成は、まず通序と別序から成っている。次に別序については、「付法(ふほう)の由漸(ゆうぜん)を明かす」、「付法相承(そうじょう)を明かす」の二段から成っている。そして、後者の「付法相承を明かす」では、湛然の命名であるが、金口(こんく)相承と今師(こんし)相承が明らかにされる。
 今師相承の段は比較的長く、智顗が慧思(えし)から継承した漸次止観・不定止観・円頓止観(えんどんしかん)の三種止観についても説かれている。これらについては、項目を改めて説明する。

[1]通序

 通序は、『摩訶止観』の冒頭の箇所である。

 止観の明静(みょうじょう)なること、前代に未だ聞かず。智者は、大隋の開皇(かいこう)十四年四月二十六日より、荊州(けいしゅう)の玉泉寺(ぎょくせんじ)に於いて、一夏(いちげ)に敷揚(ふよう)し、二時に慈霔(じちゅう)す。楽説(ぎょうせつ)窮まらずと雖も、讒(わず)かに見境(けんきょう)に至るに、法輪を転ずることを停(とど)めて、後分を宣(の)べず。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)2頁)

とある。
 智顗の説く明静である止観は、前代未聞であると絶賛している。「止」は心の散乱を静めることなので「静」とされ、「観」は智慧によって真理を照らし見ることなので「明」とされていることに気づくであろう。智顗は、荊州の玉泉寺において、開皇14(594)年4月26日から3カ月間の夏安居(げあんご)の期間に『摩訶止観』の講義をした。一日に朝と夕との2回、慈しみの心によって雨の注ぐように教えを説いたとされる。
 第七章の正修止観章(『摩訶止観』の十章のうちの第七章)の十境十乗観法(じっきょうじゅうじょうかんぽう。十種の対象界に対して十種の観察方法を適用すること)の十境のうち、第七の「諸見境」までで講義が終わって、十境の第八の増上慢境、第九の二乗境、第十の菩薩境や、第八章「果報」、第九章「起教」(ききょう)、第十章「旨帰」(しき)は説かれなかったことを指摘している。
 この点について、関口真大氏は、「この摩訶止観は、その冒頭にもいっているように、天台大師の一夏九旬の説法の筆録であるが、九〇日の期日が過ぎたために中断したものであろうといい、したがって摩訶止観は未完結なのであると見て慨(なげ)いた者もあった。けれども、天台大師の若い時代の撰述である禅門修証一〇巻が、摩訶止観と全く同様な組織の一〇章から成り、しかもまた摩訶止観と全く同様に第七章の『修証』まででおわっていることが強く注意されるべきである。すなわち修行の結果等について論及する後三章のごときは、このようにただ章名を示しておくだけにとどめ、敢えてこれを省略して不説のままに残してまで、ひたすらに初心者や初学者のために、真正なる発心のあり方、および坐禅実修の方法や人間生活に応じての実際を懇説しているのが、天台大師の終始一貫した方針だったのである」(※1)と述べている。
 これは妥当な見解であると思うが、この見解を補強する資料として、智顗の『四教義』巻第五に、「所以に一家(いっけ)の講読説法するに、必ず須(すべか)らく委(くわ)しく初心を釈すべし。賢聖(げんじょう)の深位の若(ごと)きは、但だ章を点ずるのみ」(大正46、739a4-6)を紹介しておく。つまり、天台家では、初心者の修行を詳しく論じ、高い位は名目だけを記すだけで、その内容について説かないという方針が自覚的に表明されていることがわかる。
 ただし、第八章「果報」、第九章「起教」、第十章「旨帰」については、十章のなかの第一章「大意」(大心を発す・大行を修す・大果を感ず・大網を裂く・大処に帰すという五段=五略に分かれる)において簡潔に説かれていることも忘れてはならない。

[2]別序①――付法の由漸を明かす

 別序は、前述の通り、「付法の由漸を明かす」、「付法相承を明かす」の二段から成っている。「付法の由漸」は、次の箇所である。

 然るに、流れを挹(く)んで源を尋ね、香を聞(か)ぎて根を討(たず)ぬ 。『論』に云わく、「我が行に、師保(しほ)無し」と。『経』に云わく、「莂(べつ)を定光(じょうこう)より受く」と。『書』に言わく、「生まれながらにして知る者は上なり。学びては次に良し」と。法門は浩妙(こうみょう)なり。天真独朗(てんしんどくろう)と為すや、藍(あい)従(よ)りして青しと為すや。行人は若し付法蔵を聞かば、則ち宗元を識らん。大覚世尊は劫を積みて行満じ、六年に渉りて以て見を伏(ぶく)し、一指を挙げて魔を降(くだ)す。始めは鹿苑(ろくおん)、中ごろは鷲頭(じゅず)、後は鶴林 (かくりん)なり。(『摩訶止観』(Ⅰ)2-4頁)

 ここでは、『大智度論』の「私の修行に、先生はいなかった」という立場と、経典に説かれる、釈尊が過去世において定光仏(燃灯仏)から授記されたとする立場の二説が紹介される。さらに、『論語』の「生まれながらにして知る者は上であり、学んで知る者は次に優れている」という説を紹介して、結論的に、智顗は天然の真理をひとり明らかに悟ったとするのか、あるいは『荀子』勧学篇の藍より出て藍よりも青い、つまり師に学んだが、師を越えたとするのかという問題提起をしている。
 この問題に対する直接の答えは示されていないが、付法蔵(仏法の蔵を付嘱すること)を聞くならば、仏法の根元を知るであろうとして、次下にインドにおける釈尊からの付法蔵の歴史を説いていることは、智顗が仏教の正統な継承者の一人であることを示していると考えられる。

[3]別序②――付法相承を明かす・金口相承

 別序の「付法相承を明かす」段は、金口相承と今師相承が説かれる。金口相承は、『付法蔵因縁伝』に基づいて、摩訶迦葉(まかかしょう)から師子比丘まで23人(第三の商那和修〈しょうなわしゅ〉と同時の末田地〈までんち〉を入れれば24人となる)の系譜を示すものである。『付法蔵因縁伝』は、472年に吉迦夜(きつかや)と曇曜(どんよう)によって共訳されたといわれるが、実際には二人が撰述に関与したとする中国撰述説が有力である。曇曜は、北魏の僧で、太武帝(たいぶてい)の廃仏の後に、第二代の沙門統(しゃもんとう。国によって設置された仏教教団を統括する僧官の名称)になった。また、雲崗(うんこう)の石窟(せっくつ)の開鑿(かいさく)を指導した。
 一方、 今師相承は、龍樹(りゅうじゅ)・慧文(えもん)・慧思・智顗の師資の系譜を示すものである。
 この二つの相承は、天台宗の根元が釈尊にあり、釈尊から嫡々(ちゃくちゃく)相承して智顗に至ることを示そうという意図によるものである。この点について、安藤俊雄氏は「恐らく第一のリストが付法蔵因縁伝に拠って二十三祖を掲げたのは、まず智顗の天台教学が遠く釈尊の金口説法に源を発し、とくに第十三祖竜樹の思想に拠るところが大であることを指示し、今師相承の第一祖竜樹と結び付けんがためであると推定される。そうすればこの二つのリストを結合することができ、天台教学が釈噂の説法から嫡々相伝の伝統を維持していることが一応立証されるわけである」(※2)と述べている。(この項、つづく)

(注釈)
※1 関口真大校注『摩訶止観』(上)(岩波書店、1966年)17-18頁を参照。引用文にある「禅門修証」は、『釈禅波羅蜜次第法門』(『次第禅門』)のこと。
※2 安藤俊雄『天台学』(平楽寺書店、1968年)7-8頁を参照。

(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回以降は順次掲載

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。