第3回 『摩訶止観』の特徴(3)
[3]法華三大部(天台三大部)
『摩訶止観』は、『法華玄義』、『法華文句』とあわせて天台三大部と呼ばれる。この三部作がいずれも天台大師智顗(ちぎ)の著作として扱われてきたので、当然の呼び名である。また、正確にはいつの時代からかよくわからないが、法華三大部とも呼ばれてきた。これらの三著が『法華経』と密接な関係があると捉えられたからであろう。
『法華玄義』・『法華文句』
『法華玄義』は、『法華経』の五字の経題(妙法蓮華経)を名・体・宗・用・教の五重玄義の視点から解釈したものである。つまり、経題の「妙法蓮華経」の意味は何か、『法華経』の体(教えの根拠としての真理)は何か(諸法実相である)、『法華経』の教主釈尊の修行の因と仏としての果とは何か(久遠実成の釈尊の因と果である)、『法華経』の衆生を救済する断疑生信(だんぎしょうしん)の力用とは何か(仏の権実の二智である)、『法華経』は釈尊一代の説法教化のなかでどのような位置を占めるのかという五つの問題について答えた注釈書である。
『法華文句』は、『法華経』一部の文々句々を因縁釈・約教釈・本迹釈・観心釈の四種の立場から解釈したものである。つまり、因縁釈は、衆生と仏との感応、つまり衆生が仏を動かし(感)、それに対して仏が衆生に応じるという関係に基づく解釈である。実際には、過去の因縁譚(たん)や辞書的意味が述べられる場合が多い。約教釈は、智顗のいわゆる蔵教・通教・別教・円教の化法の四教に基づく解釈である。本迹釈は、『法華経』の迹門(前半の14品で、開三顕一を説く)と本門(後半の14品で開近顕遠を説く)の二つの立場に基づく解釈である。観心釈は、智顗独自の解釈方法であり、経文の表面的な言葉の解釈にとどまることなく、経典の示す真実、すなわち空仮中(くうけちゅう)の三諦円融を自己に体得するための解釈である。
このように、『法華玄義』と『法華文句』は『法華経』と直接の関係を持っていることは見易い事実である。
『摩訶止観』と『法華経』
ところが、『摩訶止観』はどうであろうか。書名には「法華」の文字はなく、「摩訶」、つまり偉大なという意味の形容語が使われ、形容される対象として「止観」という仏教の実践修行を意味する言葉が取りあげられている。一見すると、『法華経』との関係は見られない。したがって、通常の意味では、『法華経』の注釈書とはいえない。
しかし、智顗によれば、釈尊一代の教えのなかで、『法華経』は蔵教・通教・別教・円教の化法の四教のなかで、円融、円満な思想である円教だけを説く経典と規定されている。
『摩訶止観』は、その円教を体得する一つの方法である円頓止観(えんどんしかん)を説いている書物である。もちろん、智顗によれば、円教は、あらゆる大乗経典に共通に説かれるものである。たとえば、『華厳経』は円教を中心として、別教を兼ねて説き、方等経(『維摩経』など)は、蔵・通・別・円の四教を並列して説きながら、大乗によって小乗を破り、『般若経』は、別教と円教の間に通教を挟んで説くと規定される。『涅槃経』は『法華経』と同一醍醐味(だいごみ)と規定されるが、『法華経』の説法を聞き漏らした衆生や、未来の衆生のために四教すべてが改めて説かれたものと規定される。つまり、いずれも円教を含んでいることになる。
しかし、『法華経』は他の大乗経典と違って、蔵教・通教・別教の方便の教えを混じえずに、ただ円教だけを説いているとされる。したがって、『摩訶止観』は、『法華経』の説く円教の真理の実践的把握を説いているとも理解でき、『摩訶止観』は仏道修行という立場から『法華経』を解釈したものとして、経典の字句の解釈、思想の理論的把握よりもいっそう重要な『法華経』の注釈書と捉えることも可能であろう。さらにいえば、『法華文句』の観心釈を全面的に展開した書と位置づけることも可能であろう。
このような意味で、『摩訶止観』も法華三大部の一つに数えられたと思われる。
[4]蔵教・通教・別教・円教
前の説明に四教が頻出したが、ここで、天台思想を理解するうえで最も重要な概念である四教について説明しておこう。天台思想は、よく教観双美といわれる。教は教相で、観は観心を意味する。その教の中身は四教であり、観心の中身は空仮中の三観といってもよい。
四教は、智顗が『涅槃経』の四種(生滅・無生・無量・無作)の四諦、四種(生生・生不生・不生生・不生不生)の不可説、『中論』の三諦偈(「因縁もて生ずる所の法は、我れは即ち是れ空なりと説き、亦た名づけて仮名と為し、亦た是れ中道の義なり」)に基づいて、仏教の思想を四段階に分類したものである。
蔵教は三蔵教の略で、経・律・論を完備した小乗仏教の教えである。通教は声聞・縁覚・菩薩の三種の修行者に共通な大乗仏教の入門的な教えで、前の蔵教にも、後の別・円二教にも通じる教えである。別教は界外(三界外部)の不思議変易の生死からの解脱を求める菩薩のためにだけ説かれる大乗仏教で、後の円教と対比すると、すべてを差別=歴別(りゃくべつ)の立場から見る教えのことである。円教は、煩悩即菩提、生死即涅槃に示されるような大乗仏教の最高の完全無欠な教えである。
これらの四教を区別する基準としての空仮中の三観に照らせば、次のようになる。蔵教は、空の分析的理解(析空観[しゃっくうがん])である。対象をその構成要素に分析・還元したうえで、その無実体性=空を観察することである。通教は空の直観的理解(体空観[たいくうがん])である。体空観は、析空観のような分析・還元を経由しないで、対象の全体を一挙に空であると体達、認識することである。別教は空観ばかりでなく、仮観を実践する。さらに空と仮の二辺を超絶したところに中諦を観察するので、中観にも進むのであるが、あくまで空観・仮観・中観を段階的に修行する次第三観(三諦の段階的理解=隔歴の三諦の理解)にとどまる。最後の円教においては、空諦と仮諦と中諦とが一体不離のものと捉えられ、三観を同時に修行する一心三観(三諦の直観的理解=円融の三諦の理解)が実現する。
[5]『摩訶止観』の成立
さて、『摩訶止観』は、智顗によって講説されたものであるが、智顗が自ら執筆したものではない。『法華玄義』、『法華文句』と同様に、灌頂(かんじょう)によって書物化されたものである。智顗が隋の開皇14年(594)4月26日より荊州玉泉寺で講説したものを、灌頂が聴記し、後に整理・修治を加えて完成させたのである。
灌頂による修治の過程は、佐藤哲英氏によって詳しく研究されている。湛然(たんねん)の『止観輔行伝弘決』巻第一之一によれば、当時『摩訶止観』の異本は三種あったそうで(※1)、灌頂の修治の過程で前後して成立したものと推定される。
このように、灌頂の手によって、現行の『摩訶止観』が成立したのであるから、『摩訶止観』はある意味で智顗と灌頂の合作ともいえるはずである。そこで、『摩訶止観』における智顗独自の説は何か、灌頂によって付加された部分はどこか等の問題が、『法華玄義』、『法華文句』の場合と同様に浮かんでくるが、これは文献学上、甚だ困難な課題である。たとえば、一念三千論は智顗の「終窮究竟(しゅうぐうくきょう)の極説」(※2)であると湛然によって指摘され、広く認められてきたが、これに対して一念三千論は灌頂の創唱ではないかという佐藤哲英氏の大胆な仮説が提起されているほどである(※3)。
(注釈)
※1 『止観輔行伝弘決』巻第一之一、「此の一部に前後三本あり。其の第一本は二十巻より成り、并せて第二本は十巻より成る者は、首(はじ)めに並びに題して円頓と為すとは、是れ偏小、及び不定に異なると為すが故なり。其の第二本は即ち文の初めに『竊(ひそ)かに念ず』と列する者是れなり。其の第三本の題意は少しく異なり」(大正46、141b29~c4)を参照。
※2 『止観輔行伝弘決』巻第五之三、「故に止観に至りて、正しく観法を明かし、並びに三千を以て指南と為し、乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に云わく、『己心の中に行ずる所の法門を説く』と。良(まこと)に以(ゆえ)有るなり」(同前、296a8-11)を参照。
※3 佐藤哲英『天台大師の研究』(百華苑、1961年)364-400頁を参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
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