『摩訶止観』入門

創価大学教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第2回 『摩訶止観』の特徴(2)

[2]天台大師智顗の略歴(2)

天台山を下りる

 天台山に隠棲し、修行に専念していた智顗(ちぎ)も、陳朝の皇帝による再三の申し出を拒否し続けることができず、10年にわたる天台山滞在の後、とうとう585年に天台山を下り、再び建康の地を踏むことになった。智顗は歓迎され、勅命により『大智度論』の題目(「大智度」は、摩訶般若波羅蜜の漢訳)を講義し、また『仁王般若経』を講義した。皇帝ばかりでなく、皇后も皇太子も智顗に帰依し、菩薩戒を受けた。また、『法華文句』の講説を行なった。
 ところが、このように、智顗が建康で活躍しているなかで、陳は589年、隋に滅ぼされてしまう。智顗も難を避けて廬山に逃げた。新王朝の隋の文帝(581-604在位)は、かえって智顗への帰依を表明し、また、智顗が荊州において玉泉寺(ぎょくせんじ)を造営したときには、開皇13年(593)7月23日付けで、玉泉寺の勅額(ちょくがく)を与えている。熱心な仏教信者であった文帝は、北周の武帝の廃仏によって荒廃した人心を蘇生させるために、特に仏教の復活を重視したが、自己の仏教信仰と、陳朝滅亡後の江南の統治政策のために、陳朝において重きをなしていた智顗を重んじたと考えられる。このような文帝の意を受けて、文帝の次男である晋王の楊広(ようこう。後の煬帝<ようだい>。604-617在位)も智顗の檀越(だんおつ)となったのであった。

隋の成立と智顗の晩年

 陳が隋に滅ぼされたとき、智顗も戦乱を避けて、廬山に逃げたことは前述した。その後、智顗は廬山から生まれ故郷の荊州に行ったりしたが、開皇11年(591)11月には、揚州の禅衆寺において、楊広に菩薩戒を授けた。楊広は「総持菩薩」と名づけられ、智顗は「智者」の号を授けられた。この後、楊広は智顗の最大の後援者となり、少なくとも表面的には二人の間には蜜月が続くのである(政治と宗教の問題に敏感な現代中国の学者は、二人の間に横たわる隠れた対立を暴き出そうとしている)。
 さて、智顗は開皇12年末か13年(593)の初めに荊州に入り、まず十住寺を修繕し、次に玉泉寺を造営した。このとき、楊広の仲介で、開皇13年7月23日付けで、文帝から玉泉寺の勅額を賜わったことは前述した。この頃、『法華玄義』を講説した。また、開皇14年(594)4月26日から玉泉寺において、『摩訶止観』の講説がなされた。開皇15年(595)の春には、楊広の願いで、揚州に帰った。その後の智顗は、楊広に依頼された維摩経疏(『維摩経』の注釈書)の撰述に取り組み、7月には『維摩経疏』10巻を楊広に贈った。この一部が現存する『三観義』2巻と『四教義』12巻であるといわれる(『四悉檀義』は散逸した)。
 智顗は、9月末頃に10年ぶりに再び天台山に入った。天台山に入ってからも、維摩経疏の撰述に取り組み、先に楊広に贈った『維摩経疏』10巻を改訂して、6巻の『玄義』と8巻の『文句』(おそらく仏国品までの注と推定される)を開皇17年(597)の春、第2回目として楊広に献上した。しかし、これは智顗にとって満足できない内容だったので、智顗はこれらを焼却するよう遺言したと伝えられる。開皇17年の秋、予章で病気の療養をしていた弟子の灌頂(かんじょう)が天台山に戻り、『法華玄義』、『摩訶止観』の整理本を智顗に提出したので、智顗はそれらを参照して、新たに『維摩経』の『玄義』の改訂に取り組みながら、合わせて随文釈義も進め、10月頃までに仏道品までの注釈を終えたらしい。また、死期の近いことを感じて、『観心論』(『煎乳論』ともいい、灌頂の注釈がある)を口授した。
 10月17日、楊広の使者が智顗を迎えに天台山にやって来たので、智顗は病気をおして維摩経疏の第3回目の献上の旅に出たが、天台山の西門にある石城寺(現在の大仏寺)から進むことができなかった。天台山を終焉の地と定めていた智顗は、あえて進まなかったのかもしれない。21日には、楊広に「発願疏文」(『国清百録』64)、「遺書」(『国清百録』65)を口述し、寺塔の修復、建立などを依頼した。

智顗の臨終

 臨終のときは、『法華経』、『無量寿経』を唱え、その後、十如・四不生・十法界・三観・四悉檀・四諦・十二因縁・六波羅蜜を説き、また、弟子に、自ら修行に専念できれば六根清浄位(菩薩の十信の位)に登ることができたが、弟子の教育のために五品弟子位にとどまったこと、智顗の師友が観音菩薩に侍従して自分を迎えに来ること、波羅提木叉(別解脱律儀、戒母などと訳す。250戒の戒の条目)が智顗亡き後の師であり、四種三昧(常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)が明導(賢明な導師)であることを明らかにした。そして、結跏趺坐(けっかふざ)して、三宝の名を唱えながら、三昧に入るように亡くなったと伝えられる。
 ときに、開皇17年11月24日のことであった。新暦では、598年1月7日に相当する。遺骸は遺言によって仏隴の地に葬られた。維摩経疏は、智顗の死後、灌頂と普明によって開皇18年1月に献上されたと推定されている。このときの献上本が現存する『維摩経玄疏』6巻と『維摩経文疏』28巻のうちの25巻(仏道品までの注。『維摩経文疏』の残りの3巻は灌頂の補遺)である。智顗の晩年は、維摩経疏の撰述に明け暮れたように思われる。

(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回以降は順次掲載

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。