書評『科学と宗教の未来』――科学と宗教は「平和と幸福」にどう寄与し得るか

ライター
本房 歩

生命と意識、宗教は三位一体

 2人の著名な科学者による話題の「サイエンス対談」である。
 茂木健一郎は、クオリアを研究テーマとする脳科学者にして、作家、ブロードキャスター、コメディアンと多彩な顔を持つ。
 対する長沼毅は、広島大学教授をつとめる辺境生物学者。じつはこの「辺境生物学者」というのは長沼がユーモアを交えて自称する造語らしい。というのも、長沼がこれまで研究対象としてきたのは、深海底や地底、北極、南極、砂漠、火山といった極限状態としての〝辺境〟に生息する微生物などだったからだ。その採取・研究のためには、もちろん本人がそうした〝辺境〟に足を運ばなくてはならない。
 2006年に『日経サイエンス』誌上の対談で長沼に出会った茂木は、映画になぞらえて「科学界のインディー・ジョーンズ」と命名した。長沼は茂木がキャスターをつとめていたNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも出演するなど、2人は互いに「親友」と呼ぶほど信頼関係を深めてきた。

 私が長沼さんを信頼する気持ちになったのは、おそらくその生命観、人間観に惹かれたからだろう。厳しい環境の中にたくましく在る生きものの姿は、そもそも生命はどのように誕生したのかという起源の問題につながっていく。(茂木健一郎による「まえがき」)

 本書『科学と宗教の未来』は、第1章「科学とは何か」、第2章「「生きる」を考える」、第3章「宗教と科学について」から成っている。
 茂木は「生命と意識、そして宗教は三位一体とでも言うべき関係にあると思う」と語っている。生命とは何か。人間の知性の本質は何か。意識はどう生まれるのか。人生における喜びや悲しみの本質はどこになるのか。これらの問いは現代科学の重要な命題であると同時に、さまざまな宗教が迫ろうとしてきたことがらでもある。
 書名にある「科学」と「宗教」は、じつはきわめて重なる領域を追求してきたと言ってよい。そして、本書で2人の科学者が語り合うのは、人間や命というものの奥深さであり、科学と宗教がこれからの時代に果たす新たな役割と可能性についてである。

〝偶然起こったこと〟を受け入れる

 対談の冒頭からおもしろい。長沼が生物学者になったきっかけは、筑波大学に入る時に勘違いで受験する学類(学部)を間違えたことだった。長沼は「生命」には関心があったが、生きものとしての「生物」に興味があったわけではなかった。『生命の起源』の著者・原田馨教授に師事したいと願っていた長沼は、生物学類だろうと早とちりして受験し合格する。
 実際、生物学類には原田教授という人がいたので、早速その研究室を訪ねた。ところが、そこにいたのは植物の組織培養を専門とする原田宏教授(のちの筑波大学副学長)で、求めていた原田馨教授は別の学類(自然学類)にいたのだ。
 あり得ない勘違い受験で「科学界のインディー・ジョーンズ」が誕生した経緯に触れて、茂木は「偶有性」という観点から見れば、この勘違いこそが長沼に贈られた「セレンディピティ(偶然の幸運に出あうこと)」だったと指摘する。
 この〝偶然起こったこと〟を受け入れたことで、生物学者・長沼毅が生まれた。長沼もまた茂木の言葉を聞いて、「生きものっていうのは、そうやって生きているんですよ」と返す。
 さりげない両者のやりとりに見えるが、これは2人の対談を貫くひとつの軸になっているように思われる。
 個々の生物にとって、なぜその場所に生を受けたのか、なぜ身体のある部分がそのように進化したのか。それは科学者から見ても「よくわからない」あるいは「たまたま、そうなった」としか言いようのないことばかりなのだ。
 少なくとも当人が意図したり操作したりしていないところで、思いもかけない出来事に見舞われる。その降りかかった出来事を引き受けたうえで、どう対応していくか。生物の進化の秘密も、個人の人生の幸福の秘密も、すべてはここから始まるのではないか。

科学と宗教が手を携えて未来をひらく

 生物学者である長沼が語る「心」と「哺乳」の関係は興味深い。本来、生物にとって他の個体と肌が接触することには危険がつきまとう。魚では、親が自分の卵を食べてしまうことさえある。ところが「哺乳」をするためには親と子が肌を接触させなければならない。哺乳類に関しては、肌と肌が接触する際にオキシトシン(幸せホルモン)のような脳の快楽系統がくっついていると言う。

 そういうことで、哺乳類の普遍的な共通点として「相手を思いやる」「協調性がある」「仲間の死を悼む」というものがあるんじゃないかと思うんです。(長沼毅)

 なぜ人間だけが宗教というものを持つに至ったのかをめぐって、2人の対話は進む。茂木は、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」に代表されるような欧米で隆盛する無神論には同意できないと語る。

 人類の知の探究の旅はまだ終わっていないって僕は感じています。宗教について考える場合は、やっぱり今の科学の知識と矛盾しない形でどれくらい議論できるかだと思うんです。(茂木健一郎)

 長沼は宗教の役割は〝虚構〟を示すことだとしつつ、「宗教」一般と「仏教」を一緒にするとぼやけてしまうと指摘する。

 じゃあ「仏教」は何かというと、シンボルというか、神聖なものを外側に置かない。基本的には自分の内部に置くんですよね。神聖なものを人間の心の本性に見る。(中略)前に話した類人猿の中で普遍的にみられる「思いやり」の話を、もっと追求しようという姿勢が、仏教にはある。(長沼毅)

 これに呼応して、茂木もアーサー・クラークの語った「仏教には未来がある。人間を一つにまとめるには仏教しかない」という言葉を紹介している。
 折しも対談が終盤を迎える頃に、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発した。生命と心をめぐる2人の対話は、「戦争と平和」の問題に分け入っていく。長沼は「あとがき」の中で、どんなに科学が発達しても手がつけられないのが「心」だと述べている。
 そして仏教に受け継がれている「アヒンサー(非暴力)」の精神に言及し、科学と宗教が手を携えて平和を手繰り寄せることは、もはやわれわれの「務め」だと語っている。

『科学と宗教の未来』(茂木健一郎・長沼毅 著/第三文明社/2023年1月20日)

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