芥川賞を読む 第24回『夏の約束』藤野千夜

文筆家
水上修一

同性愛者のありふれた日常を、軽妙に明るく描く

藤野千夜(ふじの・ちや)著/第122回芥川賞受賞作(1999年下半期)

軽い文体で描こうとしたもの

 W受賞となった第122回芥川賞のもう一つの受賞作が藤野千夜の「夏の約束」だ。『群像』(平成11年12月号)に掲載された約128枚の作品である。
 受賞翌年の平成12年に講談社から発刊された単行本の表紙を見ると、まるで小学生向け雑誌の表紙のような楽しげで明るくて軽いイメージだったので、一体どんな小説なのかと思いながら読み進めると、なるほど物語自体は実にたわいのない軽い内容なのだ。
 主人公である同性愛者の男性マルオとその恋人ヒカルを中心に、同じように社会の標準からは少しずれた若者たちのごくごくありふれた日常を淡々と描いている。何か大きな事件が起こるわけでもなく、深刻な問題を抱えているわけでもない。タイトルにもなった〝夏の約束〟にしても、友だちみんなで「八月になったらキャンプに行こう」と決めていた約束が、登場人物のちょっとした事故で行けなくなったという、たったそれだけのところから持ってきている。
 読み始めてまず驚いたのが、その文体の軽さである。まるで、女子中学生の語り口のようなのだ。これが本当に芥川賞を受賞した作品なのかと驚きながら読み進めていくと、次第に様子が違ってきた。あえて狙って、必然性を持って、こうした軽い語り口にしていることが分かってくるし、よくよく読むとその上手さが滲み出てくる。そして、読み終わった後にはその上手さに感嘆する。何か爽やかな楽しい感覚が残る。
 普通、同性愛者の生活を描く場合には、おそらくこれまで味わってきた痛みや内面の葛藤というものを幾重にも塗り重ねながら書き進めるだろうから、必然的に重い作品とならざるを得ない。ところが、「夏の約束」では、そうした問題を達観しているかのような登場人物が飄々と描かれている。だからこそ、性的マイノリティの日常というものが何も特別なものではなく、他の同世代の若者と同じような感覚の中で生きているということが伝わってくる。そこには、性的マイノリティとマジョリティとの間に横たわる差異というものがない。
 おそらく、そこには、男性であることに違和感を持ち女性として生きてきた作者自身の、「こんな社会だといいのに」という願望があったのかもしれない。

選考委員の賛否を分けた〝軽さ〟

 選考委員の選評を羅列してみよう。まずはわりと好意的な選評から。

池澤夏樹「気持ちのよい作品である。その気持ちのよさは、ほとんど拘りというものを持たず、全てを受け流して生きている主人公マルオと、恋人のヒカルはじめ似たような周辺の連中、そして、その日々の暮らしをリズミックに軽く書いた文体にあるのだが、(中略)もう少し歯ごたえがほしいとも思ったが、受賞には反対しない」

三浦哲郎「一見、無雑作に楽々と書かれたような平明な文章が、よく読んでみると注意深く選んだ言葉でしっかりと編まれていて味わい深い」

宮本輝「一読するとあまりにも軽すぎて、これではいささか・・・と首をかしげそうになるのだが、このように軽妙にかける技量の背後には、したたかな文章技術というツボを刺す長い鍼が、本人が意識するしないにかかわらず隠されているものだ」

黒井千次「不思議に自由でのびやかな生活空間を生み出している様が面白い」

 次は、やや厳しい評価。

田久保英夫「相当な力量だが、しかし、こんなに平明な世界で、口当たりがよくていいのか、とも思えてくる」

 最も厳しかったのが、やはり石原慎太郎。

「私にはあくまで一人の読者として何の感嘆も湧いてこない。平凡な出来事の中で描いてホモを定着させることが新しい文学の所産とも一向に思わない。私にはただただ退屈でしかなかった」

 文学も、音楽や絵画や映画と同じように芸術でありエンターテインメントだから、好みがあることは当然だ。腹の底に響くような重量感のあるテーマを描いたものがあってもいいし、ポップコーンをほおばるような軽い感覚のものがあってもいい。そう思えば、こんな書き方もあるのだな、こんな面白さもあるんだな、と〝読み〟も広がる。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』町田康


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。