まだ小説家としてデビューする前、習作を書くのに考えたことがあった。それは、いま僕らが生きているのは、どのような時代か、また、どのような世界か、ということだ。それを知らないでは、切れば血の出るような小説(中上健次がよくいった言葉です)は書けない。
僕がやったことは、片っ端からそれが分かるような本を読み漁ることだった。そして、英語もろくにできないのに、ニューヨークタイムズのブックレビューを注文し、フランス語なんてアベセぐらいしかできないのに、ル・モンドを買った。
そうした読書のひとつにフランスから輸入された現代思想があった。ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーなどが、次々に翻訳され、僕はそれを手に取った。すべてが新鮮だった。しかし難解だった。僕がどれほど理解できていたか、怪しいものだ。
千葉雅也の『現代思想入門』を読んで、なるほど、哲学のプロはそのように読むのか、と得心した一方、あれほど難解だとおもっていた現代思想を生きるために活用するという態度に共感した。
医療の世界では、大学の研究医は、町医者を下に見る傾向があると聴いたが、僕は臨床に徹する町医者を尊敬する。苦しむ人々に寄り添わない知識は、身につける値打ちがない。思想も同じことがいえる。
確か、フランスの哲学者アランだったとおもうが、いまセーヌ川に投身しようとしている娼婦を、どのように引き留めるか――これが哲学の問題だといった。僕はこの考えに触れたとき、いたく同意した。しかし彼のような哲学者は少ない。
現代思想はおもしろいが、僕らの生活とは無縁だとおもっていた。ところが、千葉は、脱構築(deconstruction)を生き方に応用する。脱構築とは、現代思想の主要な考えのひとつで、
物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立によって捉えて、良し悪しを言おうとするのを
いったん留保する
こと。
具体的には、次のような手順を踏むと、千葉は解説する。
①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるわけではありません。
②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。
③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような第三の概念を使うこともある
ここで脱構築の元祖・デリダの考え方を例にとって、生き方に応用すると……
大きく言って、二項対立でマイナスだとされる側は、「他者」の側です。脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入するのです。自分が自分に最も近い状態でありたいということを揺さぶるのです。(中略)デリダの脱構築は、外部の力に身を開こう、「自分は変わらないんだ。このままなんだ」という鎧を破って他者のいる世界の方に身を開こう、ということを言っているのです
ひとりは気楽でいい。人と関わると気苦労が増える。しかし、他者と隔絶した生活をしていると、心が貧血状態になる。人間は、人間と交わってこそ、人間なのだ。現代思想に触れて、そんなことを考えるとはおもいもしなかった。
ほかにも、ドゥルーズ「存在の脱構築」、フーコー「社会の脱構築」と進み、現代思想の源流を顧みたかとおもうと、デリダの弟子のマラブーや、メイスヤーといった新進気鋭の思想家たちを紹介する。付録の「現代思想の読み方」も親切だ。千葉雅也はおもしろい。
お勧めの本:
『現代思想入門』(千葉雅也著/講談社現代新書)