閻連科(えんれんか)――中国の現代文学に関心のある人なら、一度は耳目に触れた名ではないかとおもう。僕は、この小説家の書く作品が好きで、何冊かは読んでいる。そして感心した。
僕はそれほど詳しいわけではないが、中国には、何人かすごい小説家がいる。90年代には、ラテンアメリカ文学のブームがあったけれど、もし、日中韓などを核にして、東アジア文学のようなムーブメントが起きたとしたら、ラテンアメリカ文学のガルシア・マルケスに匹敵するのが、閻連科ではないか。
彼の小説は、だいたいスキャンダラスだ。母国では禁書扱いにされている作品もある。でも、そういう小説家の書くものは、体制とスリリングな関係にあるからこそ、おもしろい。読む価値もある。
ところが、本作『年月日』は、閻連科自身が、この作品は自分が書くほかの小説とは違っている、閻連科はこのような小説も書くのだと知ってほしいといっている。もちろん、力強い文章の運びや物事の本質を射抜く眼の働き方は、やはり、閻連科の小説だ。
しかしこの『年月日』は、泣かせる。「全米が泣いた」とかいうような、歯の浮くような、甘ったるい作品ではない。人間が、いのちが、生きることのきびしさを書いた小説だ。
田舎の農村の、ある村が旱魃のせいで飢饉に陥り、村人が去ってしまう。そこへひとり、いや、メナシという盲犬とふたりでもどったのが、72歳の先じいだ。彼は、自分の畑で1本のトウモロコシを育てようとする。
まず、メナシがなぜ盲犬になったのか。この犬は、じりじり照りつける太陽を封じるため、陽が昇ると、その光に向かって吠えるように繋がれた。そして、眼をいためてしまったのだ。先じいは、かわいそうにおもって引き取った。
ふたりは、毎日、トウモロコシのところへ小便に行く。肥料と水分を与えるためだ。しかしなかなかトウモロコシは育たない。それどころか、強風のせいで苗が折れてしまう。残ったところは、指のように細い。
先じいは、この苗のそばに戸板と筵で簡便な小屋を建てて住むことにした。飢饉のせいで、食料がなくなる。ふと気づいて、村人たちが種蒔きのときに埋めたトウモロコシの粒を一粒ずつ掘り起こし、炒めて食べた。
そのうちそのトウモロコシも尽きる。先じいは村人たちの家に忍び込んで食料が探すが、見つからない。井戸の水も枯れた。そのとき、先じいは丸々と太った鼠に出会った。こいつらは何を食べているんだ?
鼠の巣穴を掘ると、トウモロコシが蓄えてあった。先じいは、ほくほくとそれを食べた。しかしやがてそれも尽きたころ、鼠たちは先じいのトウモロコシを食べようとした。先じいとメナシは戦った。
やがて鼠たちが大移動を始めた。もう、このあたりには食料も水もないということだ。トウモロコシは! やはり、水不足で育ちが悪くなっていた。先じいはメナシに番犬をさせて、水を探しに行った。
このトウモロコシは、自分たちが食べるだけではない、村人たちにも分けてやるのだ。大切なトウモロコシなのだ。
先じいは池を見つけた。喜んだところが、向こうに狼がいる。水を飲みに来る獲物を待っていたのだ。先じいと狼は睨みあう。やがて狼は諦めて去った。先じいは水をたっぷり飲み、躰も洗った。水を汲んでの帰り道、狼の一群に出会った。群れにはさっきの狼もいた。
先じいは、この狼たちと一昼夜、睨みあう。根負けしたのは狼たちだったが、先じいは恐ろしさに失禁していた。
さて、水は確保した。次は食料だ。先じいは罠を仕掛けて鼠を捕らえ、メナシと分けあった。それが続いたのも半月。鼠は姿を消し、あとは先じいが死んでメナシを生かすか、メナシが死んで先じいを生かすか、というところ追い込まれ――
僕が、『年月日』を読んで思い出したのは、ヘミングウェイの『老人と海』だった。あの、いのちのせめぎあいが、ここにもある。しかし『年月日』には『老人と海』にはないものがある。いのちへのいとおしさ、だ。
ほんと、泣けまっせ。
お勧めの本:
『年月日』(閻連科著、谷川毅訳/白水社)