500年早い「人権宣言」
世界人権宣言の批准(1948年)から20年を記念して、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が1冊の書籍を編纂した。世界各国の歴史上の偉人、文学者などの言葉から、人権に関する普遍的メッセージを採録した『語録 人間の権利』(邦訳は1970年刊行)だ。
ここに『万葉集』にとどめられた山上憶良の歌などとともに、日蓮(1222-1282)の『撰時抄』に記された次の一節が収録されている。
王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるようなりとも、心をば随えられたてまつるべからず。(『新版 日蓮大聖人御書全集』204ページ)
王(権力者)の支配する地に生まれたゆえに身体的には権力に従えさせられているようであっても、心は従えさせられることはない――。
1274年の春、佐渡流罪から赦免され鎌倉に戻った日蓮が、自身を佐渡流罪に陥れた張本人である平頼綱と対面した際に放った言葉である。
アメリカやフランスで人権宣言が生まれたのは18世紀の終盤であり、日蓮はそれよりも500年早く、高らかに「精神の自由」を宣言していたことになる。
日蓮の生きた時代は、大地震、飢饉、感染症、戦乱が繰り返された。日蓮の代表的著作である『立正安国論』は、相次ぐ自然災害、飢饉、感染症によって、路傍に牛馬が倒れ、骸骨が散乱し、人々が息絶えようとしている惨状の描写から始まっている。
なぜ、仏教が隆盛している日本国で、人々がこのような苦しみに追いやられているのか。朝廷や幕府が諸宗の高僧に祈祷を命じているのに、国土の荒廃と人々の不幸がどうして続くのか。これが日蓮の問題意識だった。
人間性・人間的魅力に焦点を当てる
同時代の人々のなかで、日蓮が著した論文や書状は群を抜いた数にのぼっている。内村鑑三は著作『代表的日本人』に5人の日本人を選び、唯一の宗教者として日蓮をその1人に挙げた。
「仏敵」と呼んだ者には苛烈でありましたが、貧しい者たち、しいたげられた人たちに対しては、まことにやさしい人物でありました。(『代表的日本人』)
現存する膨大な遺文から見えてくるのは、日蓮の人格のふたつの側面だ。それは、命を懸けて幕府の宗教政策の誤りを指摘し、自身を迫害した為政者に対しても堂々と「精神の自由」を言い放つ強さ。そして、弱い立場にある人々の苦悩に同苦しながら励ましの言葉を届け続ける優しさである。
本書『日蓮の心』は、東洋哲学研究所の創立60周年を記念するプロジェクトとして準備された。日蓮の人間性・人間的魅力に焦点を当てて、各研究者の研究成果をまとめたものだ。
目次に沿って内容を紹介すると、「Ⅰ 権力の安泰から民衆の平和へ――国家観」(佐藤弘夫)、「Ⅱ 日蓮思想の根拠――法華経」(菅野博史)、「Ⅲ 安穏といくさ――平和論」(小林正博)、「Ⅳ 万人の成仏――女性観」(栗原淑江)、「Ⅴ 困難を乗り越える力――仏法の道理」(小島信泰)、「Ⅵ 人生を開きゆく好機――末法観」(若江賢三)、「Ⅶ 人間・動物・環境――生命観」(前川健一)、「Ⅷ 南条家に見る師弟の交流――供養の志」(梶川貴子)となっている。
大聖人の教義や思想だけでなく、その生涯や生きた時代を描くことにより、その卓越した思想がいかにして形成されてきたか、またそれに付随して、大聖人の人生観、民衆観、国家観、門下との交流、法難観、疫病等の災異観、生老病死観、平和論、幸福論などを探求するなかで、人間・日蓮大聖人の魅力を浮き上がらせられないか(桐ケ谷章・東洋哲学研究所長による「序にかえて」)
更新される「日蓮像」
日蓮については「国家主義者」「排他的」「戦闘的」というイメージがかぶせられ、独り歩きしてきた。とりわけ国家主義に関しては、田中智学や本多日生ら戦前の日蓮主義者による解釈の影響が大きい。
彼らは日蓮の「立正安国」の思想を〝支配権力〟としての国家の安寧と解釈し、天皇を中心とした神聖国家の樹立と、その神聖国家による世界統一をめざすものだとして宣揚した。満州事変の首謀者の石原莞爾らが、こうした日蓮主義に傾倒していたことは広く知られている。
佐藤氏は日蓮主義者らの誤解の背景として、日蓮の生きた中世に共有されていた不可視の他界のリアリティが近世以降に失われ、「立正安国」がもっぱら世俗的な意味での国土の平穏を指すものに変質していったことを指摘している。
また小林氏は、『撰時抄』などに見られる〝念仏者・禅僧の寺塔を焼き払い、彼らの首を刎ねよ〟という文言について、これは日蓮の主張ではなく、日蓮を亡き者にしようと画策した敵対勢力側から発せられた言葉であることを論証している。
栗原氏は、日蓮が法華経に基づく「女人成仏」を高らかに宣言していたことが、日本仏教史において画期的であったことを論じている。
同じ鎌倉仏教の開祖でも、親鸞の著作のなかには意外にも女人往生(成仏)や五障三従をめぐる議論はほとんど見られないという。しかも、親鸞の女人往生思想は〝阿弥陀の第三十五願を支えとした「変成男子」の往生〟であり、罪業深い女性のままでは往生(成仏)できないので男性に転じてから往生するというものだった。日蓮が示したような「即身成仏」ではなかったのである。
初期には徹底した男女平等論に立っていた道元も、永平寺に入った頃からその主張を放棄している。
先に日蓮が西欧に500年も先立って「精神の自由」を宣言していたことに触れたが、ジェンダー平等についても日蓮は700年以上前に明快に示していたのだ。
本書に収録された各研究者の論考は、多様な角度から日蓮の新しい人物像や人間的魅力を浮かび上がらせている。
漁村の民の子であることを誇りとし、世俗的な権勢とは無縁であった日蓮だが、「日蓮一人」から始まったその教えは生誕から800年の今、日本はもとより世界の190を超す国と地域に広がり、それぞれのローカルの信仰として根付いている。
むろん、それはなによりも日蓮の樹立した法理に力があった証左ではあろうが、日蓮という人間自身が持っていた近代性、ナショナリズムを超克していく思想、門下ひとりひとりの境遇や真心の細部まで汲み取っていく誠実さといった、人間的魅力によるところもまた極めて大きいのだと思う。
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