「唐手」から「空手」の時代へ
船越が東京で最初の稽古場として使用した明正塾(沖縄県人学生寮)から改築問題で立ち退きを求められ使用できなくなるのは昭和初期。やむなく他流派の道場の空いている時間を借りて稽古を続けた。
1924年、慶應義塾大学に唐手道研究会が創設され、その流れは徐々に他大学にも広がっていった。当然私学のライバルであった早稲田大学にも空手研究会が発足。慶応に遅れること7年過ぎていた。東京帝国大学、一橋大学など多くの大学にも空手部がつくられていった。
特筆すべきことに、慶応義塾が最初に掲げた「唐手」の看板の表記は、1929年に「空手」に変更されている。日清戦争以来、中国を忌避する社会風潮が生まれ、「唐」の字を嫌う傾向が強まっていったからだ。さらに型の名称(多くが中国名だった)も日本式の漢字に変えられていった。それを実行したのは船越自身かその側近であったにせよ、船越の責任の範囲内にあったことは明白である。
日本の名門大学に空手部が創設されていったことは空手普及の点ではよい傾向だったが、肝心の船越自身の本部道場はまだ存在しなかった。見かねた学生たちが本部建設運動を始めた。
1931年になると船越は本郷区に一軒家を借り、その庭で野外練習を行った。1932年になると、隣家の1階部分18畳を道場として間借りし、そこでの稽古が始まった(真砂町道場)。畳がぼろぼろにすり切れた稽古場を写した当時の写真が残っている。
正式に本部道場建設委員会が誕生するのは1937年になってから。翌年、新道場の敷地を雑司ヶ谷(現在の豊島区)に決定し、建設にとりかかった。完成したのは1938年11月中旬のこととされる。
松濤館道場の落成式が開催されたのは翌39年の1月29日。船越はすでに70歳になっていた。上京して16年あまり。それまでの苦労がようやく実った。
2年後、上京以来一度も沖縄に帰省していなかった船越は、生涯で最初で最後の「里帰り」を行った。ちょうど日米開戦の時期に重なっていた。1941年12月から年末をはさんで翌年1月初旬に神戸経由で帰京するまで、実家での滞在を楽しんだ。
帰京してから、戦況は厳しくなるばかりで、門下の浄財で建設された本部道場はわずか6年で米軍機の空襲で焼失する。
その後大分県に疎開するが、終戦直後に三男の義豪を病気で亡くし、さらに戦後ほどなく自身の妻にも先立たれた。
疎開先の大分から東京に戻ったのは1947年9月。その後は本土にて〝空手再建〟の日々をすごす。
武術とスポーツの混合
前述のように、船越は沖縄の空手を〝そのままの形〟で本土に定着させたわけではなかった。
内心はそれを望んでいたはずだったが、中国との戦争のため型名を中国語から日本語に置き換えたほか、平安型の初段と二段を入れ換えたり、動作を改変するなどしている。
これらは船越自身の手によるというよりも、師範代を務めた三男の義豪らが関わったものとも推測されるが、その結果、同じ平安の型でも、現在の松濤館の型と沖縄小林流の型では大きく異なるものとなった。
糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)やその弟子の屋部憲通(やべ・けんつう 1866-1937)らが加わって創案したと見られる5種類の平安型は、もともと沖縄の古流の型であるパッサイ、クーサンクー、チントーなどの首里手の主要型から動作を抜き出し、教育用の安全な型として再構成したものだった。それでも武術的な要素はふんだんに残された。
一言でいえば、船越が本土に残した空手は、武術的要素に西洋式スポーツを混在させるような物になってしまった。足幅を広くするなど、その痕跡は顕著に見てとれる。
空手も、柔道や剣道と同様、競技化(スポーツ化)の過程で、多くの武術的な要素をそぎ落としていった。
そのため船越の本土に空手を伝えた苦労と功績を率直に称える感情をもちながらも、そのすべてを手放しで称賛できない心情が沖縄には存在する。(終わり)
東京オリンピックの開催で日本でも脚光があたる空手
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