空手普及100年――唐手から空手へ(中)

ジャーナリスト
柳原滋雄

確定できないままの講道館演武会

 1957年に88歳で死去した沖縄出身の船越義珍(ふなこし・ぎちん 1968-1957)が、東京で空手指導したのは戦争中に大分県に疎開したおよそ2年間を除く33年の歳月である。
 逝去半年前の1956年秋、船越は産業経済新聞社から『空手道一路』という自身のエッセイ的自伝を上梓した。空手にかけた自身の生涯を綴ったものだったが、記憶のみに基づいて書いた部分が多く含まれることは指摘されてきた通りだ。
 例えば文部省主催の運動体育展覧会のため上京した肝心の1922(大正11)年のくだりも、「たしか、大正10年の末だったと思う」などと書く。信頼できる資料と照らし合わせないまま活字にしたことが明らかだ。こうした傾向はこの著作に限ったわけではない。
 例えば、この上京の時期について、1935年に船越が月刊誌『改造』に書いた17ページにわたる長文の原稿「空手の話」では、「大正11年の夏」と記述している。
 正確な日時は「1922(大正11年)4~5月」で、船越の大雑把さ(おおらかさ)が表れている。
『空手道一路』が出版された前年、同じ産業経済新聞社から、〝空気投げ〟で名をはせた講道館指南役の一人であった三船久蔵(みふね・きゅうぞう 1883-1965)の『柔道一路』が発刊され、つづけて高野茂義(たかの・しげよし 1877-1957)の『剣道一路』が出版された。それらにつづく空手篇として船越に白羽の矢が当たったのが出版の経緯だった。
 3つの武道の中で最も〝後発〟であり、まだ十分な市民権を獲得していなかった空手だけに、船越は空手普及の意地にかけて背伸びした記述もあったかもしれない。

産業経済新聞社が発行した一連の「一路」シリーズ。船越が最晩年に発刊した自叙伝『空手道一路』(写真右)は希少本のため〝原本〟が流通することはほとんどない(写真は愛蔵復刻版)

 ここではっきりさせておかねばならないのは、船越が当時の講道館道場に招かれて演武した日がいつだったかという歴史的な史実についてだ。
 当時、船越の助手として演武の相方を務めた儀間真謹(ぎま・しんきん 1896-1989)が晩年、研究者と対談した中で、その研究者は「大正11年5月17日のことです」と断定的に述べている。だがその根拠についてはそこでは何もふれていない(『対談 近代空手道の歴史を語る』1986年)。
 一方、同年6月3日付で掲載された東京日日新聞の記事では、翌6月4日に講道館で「実演する」旨の記載がある。
 筆者が東京文京区の講道館に確認してみると、図書資料部の担当女性は次のように回答した。

私どもでも確認してみましたが、残念ながら(講道館側には)当時の一次史料が残っておりません。そのため日付の決め手となる資料も見当たらない状態です。当時、機関誌の切り替えの時期で、普通ならさまざまな行事や外国からの来訪者などを記した詳しい記録があるのですが、このころはそうしたものが残っていないのです

 ついでに5月17日前後の当時の新聞記事(朝日、東京日日、読売など)を確認してみたが、演武会を報じたものは、私が見た範囲では見つけることができなかった。
 上記の『対談 近代空手道の歴史を語る』における対談では、演武会の後、昼食をとったことが記載されている。さらに演武会には250人が集まったことになっている。だが調べてみるとその日は平日の水曜日だった。平日の午前中に、仕事や授業があったと思われる時間帯に、これほどの人数が集まれただろうか。一方の6月4日は日曜日だった。ただしこれらも、現状では確たる決め手となるわけではない。
 ちなみに6月3日の東京日日の記事の見出しは「講道館でも研究する」となっており、講道館でも〝演武〟するとはなっていないことも何かしらヒントめいている。
 仮に5月17日に演武会が開催されたのなら、運動体育展覧会の〝期間中〟に行われたことになる。6月4日であれば展覧会の終了(5月30日)後ほどなくして実行されたことになる。
 これは沖縄の空手が日本で大々的に披露された象徴的な出来事であるだけに、その日付の〝確定〟は今後の研究成果に待ちたいと思う。

金銭的に苦労した上京後の日々

 ともあれ、船越に沖縄への帰郷を思いとどまらせ、東京残留の方向にかじをきらせるきっかけとなったのは柔道家の嘉納治五郎であった。同時に、船越に空手指導を依頼した画家がいた。その画家が属するグループ「ポプラ倶楽部」に懇請され、展覧会終了後、1週間ほどかけて指導を行っている。
 さらにそのとき画家から、沖縄に帰る前に、自分たちが不安なく稽古できるように書き残してほしい旨の要請を受け、その日のうちに船越は構想を練り、原稿を大方書き上げたという。
 もともと画家は雑誌原稿のことを言っていたようだったが、船越は勝手に〝書籍の原稿〟と勘違いして原稿をつくったという。その年の11月に本邦初の空手技術書である『琉球拳法 唐手』が発刊されたスピード出版の背景には、そうした微笑ましい〝勘違い〟が横たわっていたようだ。
 さらに業界に顔のきくこの画家をとおして、出版関係者とのつながりが最短でできたことも明らかだろう。最初の本でも、その画家が装丁を手がけている。
 講道館演武会で嘉納から型の習得にどの程度の日数を必要とするか聞かれた船越は、最低1年と答えたようだ。その後帰郷をとりやめ、多くの団体で空手披露の演武会や講演会を重ねた。
 助手の儀間は当時、東京商船大学(現在の一橋大学)の学生だったが、「私の最後の夏休みは、唐手術演武会のために消えてしまった」(『対談 近代空手道の歴史を語る』)と述懐している。船越らは当時、どのようなところで演武して回ったのか。本人の著作から紹介したい。
 最初に出版した『琉球拳法 唐手』(1922年)には次の記載がある。

私が東京で招聘に応じて講演及び実演を試みたのは司法省で法曹会を筆頭に、日本講道館本部、陸軍戸山学校、帝国教育会、大日本学校教育研究会、尚侯爵家、ポプラ倶楽部、九段県人会、錦城商校職員有志団、士官学校予備校、府立第一中学校、学習院、その他数箇所…

空手界における最初の段認定で黒帯となった船越門下の面々(1924年4月)。慶応義塾大学のドイツ語の粕谷教授(船越の左隣)や後に本土4大流派の一つとなる「和道流」を開いた人物なども含まれる

 ほかに日本で最初の大学同好会(後の空手部)となる慶応義塾大学唐手研究会が1924年10月に創部された。
 船越は展覧会の期間は旅館に宿泊したが、まもなく滞在費が底をつき、夏には沖縄県人寮の明正塾を〝仮の宿〟とし、その講堂で細々と空手指導を始めた。
 当初は寮の学生たちも好意的に見てくれたというが、その後、気合の声がうるさいなどといった苦情が出るようになり、できるだけ音を立てないで声も出さないで稽古しなければならなくなった。本人にとっては大きなストレスとなったようだ。さらに収入も少なく、寮での食事代にすら事欠く日々が続いたという。
 53歳で上京した船越は、妻を故郷に残したまま、経済的に苦労する時代が10年近くも続くことになった。年齢でいえば53歳から64歳くらいの時期に当たる。
 もともと教職という商売人とはほど遠い職業に就いてきたことと、武人としてのプライドも邪魔をしたにちがいない。沖縄空手の本土への普及は、こうした船越の生活面の苦労抜きに、語ることはできない。(次回につづく)

空手普及100年──唐手から空手へ
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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。 著書に『沖縄空手への旅──琉球発祥の伝統武術』(第三文明社)、『空手は沖縄の魂なり――長嶺将真伝』(論創社)など。