西方出張所に集まった7人
1990年3月。宗門は学会との相談なしに、いきなり法務に関する料金の値上げを発表した。本尊下付の2000円を3000円にしたほか、塔婆供養の冥加料を1000円から2000円に、大過去帳のそれを5万円から10万円にするという、2倍もの値上げだった。
じつは、前年の3月に宗門は冥加料の値上げを打ち出そうとした。この時は、消費税導入の直後でもあり、便乗値上げと誤解されかねないと学会が難色を示した。すると宗門は、「じゃあ結構です」と値上げそのものを引っ込めた。そして1年後、今度は一方的に値上げを決定し、学会には事後通告してきた。
この1990年は、大石寺の開創700年にあたっていた。
学会では信徒の誠意として、この佳節を最大限に奉祝すべく、法華講総講頭でもある池田先生以下の首脳陣が陣頭に立って、委員会をつくり準備にあたってきた。静岡県男女青年部は大客殿前広場での慶祝記念文化祭を準備し、9月の開催に向けて、猛暑の季節、連日の練習に励んでいた。
こうした学会員の宗門に尽くす真心の裏で、信じられない謀略が進められていた。
7月16日、東京・文京区西片にあった「大石寺出張所」に、人目をはばかるように高僧たちが集まっていた。法主が東京に滞在する折に使用する〝専用施設〟だ。
この日、西片出張所で何があったのか。それは、出席していたひとり・河辺慈篤(当時・日蓮正宗北海道大布教区長)の直筆メモが、のちに外部に流出したことで明らかになった。
メモによれば、出張所に集まっていたのは、河辺の他に、宗務総監の藤本日潤、庶務部長の早瀬義寛、渉外部長の秋元広学、大石寺主任理事の八木信瑩、海外部主任の関快道、そして法主の阿部日顕の7人。法主を筆頭に、いずれも宗門トップの高僧ばかり。
河辺メモには、次のように記されている。
〈八木、関=池田はダメ。池田を追放すべきだ。など強硬意見が出る〉
〈話題は、池田追放の方向で進められ、猊下、八木、関共に〝池田追放〟で強硬意見〉
猊下とは法主である日顕のこと。わざわざ総本山を離れ、余人の近づく心配のない東京の法主専用の屋敷に集結した彼らは、池田先生を宗内から追放する密談を交わしていたのだ。
学会にも宗内にも極秘の内容
この日、まず阿部日顕と八木、河辺、関の4人が出張所内で会食をした。
席上、日顕が四通の「投書」を取り出して見せた。創価学会を脱会した者が書いたらしい投書で、学会や、池田先生に対する一方的な批判中傷が綴られていた。
藤本、早瀬、秋元の3人は、その時刻、翌17日に控えた創価学会との「連絡会議」の事前打ち合わせをしていた。彼らはこのあと合流するのだが、この7人によって秘密会議が開かれることとなった経緯を、河辺慈篤のメモはこう記している。
〈当初、宗務院全部長、内事部役員が集まり会議を開く予定だったが、河辺が「天下公開で会議を開くようなもの。例のメンバーで会議を開くべきだ」との意見から、猊下、総監、早瀬、秋元、八木、関、河辺のメンバーで西片会議が開かれる〉
つまり、本来の正式な会議を開きたかったが、それでは創価学会に会議の中身が漏れてしまう。それで、日顕の信任厚い6人が西片で密談することになったという意味だ。
すでに十分過ぎる財力を蓄えていた日顕は、大石寺開創700年を区切りに、創価学会の指導者である池田先生を宗内から追放し、創価学会を宗門の支配下に置くか、さもなければ解散させようと考えていた。
彼らの頭には、日蓮大聖人の遺命である広宣流布など微塵もなかった。創価学会のおかげで日本一の隆盛を誇る宗派になった。だが、池田先生のもと、在家の信徒が真剣に教学を学び、折伏の実践をするのでは出家のメンツが保てない。羽を伸ばして遊ぶこともままならない。
余計なことをせず、宗門の権威に従順で、黙って供養を差し出すだけの信者がいればそれでいい。あの第一次宗門事件で正信会の坊主たちが考えたことを、今度は法主自らが主導したのだった。
極秘の協議は、学会と宗務院との定期の連絡会議をまたぎ、7月18日午前9時から、今度は大石寺の大書院で開かれた。大書院での開催になったことについて河辺は、
〈御前会議が大書院になったのは、当初、大奥洋間、新大奥と、盗聴を恐れて、いろいろ思案の末、大書院となり、あへて障子を全部開放し会議〉
とメモしている。
誰かに立ち聞きされないよう、広々とした大書院の障子を開け放って視界を保ち、隠密に話し合いをしたわけだ。
会議では、この池田追放の計画を、今後どう呼ぶことにするか相談された。
〈河辺=それでは、この作戦はG作戦だ〉
〈猊下=それは違う、Cだよ〉(河辺メモ)
河辺が口にした「G」というのは「学会」の頭文字だった。だが、日顕は「G作戦」ではなく「C作戦」と自ら命名した。Cはカットの頭文字。すなわち、池田先生をカットするという意味である。
宗規の変更で総講頭を罷免
3日後の7月21日、日顕は〝目通り〟で池田先生ら学会首脳陣に対し、異常な激高を見せた。だが、その後は「C作戦」を学会側に悟られぬよう、表面的には努めて平静を装い、公式の場でもあいかわらず池田先生と学会を賞賛し続けた。
たとえば創価学会の機関誌『大白蓮華』の1991年1月号には、日顕自身が「新年の辞」を寄稿し、池田先生に対しても讃辞を連ねている。同号は90年の12月上旬には編集が済んでいるから、日顕がこの原稿を用意したのは11月あたりだろう。
10月の大石寺開創700年の記念法要でも、池田先生を称賛するために、感謝状と記念品を日顕自ら手渡した。
日顕が謀略をひた隠しにして平静を装ったのには理由がある。ひとつには、奇襲を仕掛けて学会を大混乱に陥れるため。ふたつは、そのギリギリまで1円でも多くの供養を学会から手に入れるためである。
7月時点で創価学会の解体を視野に入れた「C作戦」を謀議しておきながら、日顕はこの年の12月21日にも三重県に出向き、創価学会からの200カ寺建立寄進の一環である寺院を平然と受け取っている。
開創記念の関連行事が終了し、本山や末寺に参拝者から莫大な供養が集まりきった年末になって、日顕は動いた。
12月13日、宗門と学会の連絡会議。ひと通りの議案が終了したあとで、総監の藤本日潤が学会側に、唐突に「お尋ね」と称する文書を手渡そうとした。その内容は、11月16日におこなわれた創価学会の第35回本部幹部会での池田先生のスピーチに、法主と宗門を誹謗した許し難い問題点があるのではないかというものだった。
根拠になっているのは、宗門がどこかから入手した幹部会の盗聴テープという。
しかし出所不明のテープならば、悪意をもって内容が改竄されている可能性も考えられる。そんな情報をもとに宗門と学会が公式に文書をやりとりしては、宗史に汚点を残し、総監の責任問題にも発展しかねない。学会側はこう述べて、問題があれば話し合いで解決したいと要望した。
学会側の言い分は筋が通っている。藤本もこれに同意せざるを得ず、この日は文書を引っ込めて帰った。ところが、3日後の12月16日付で、宗門はなぜか「話し合いによる解決は不可能」とし、この「お尋ね」を学会本部に郵送。7日以内に文書で回答せよと居丈高に迫ってきた。
この「お尋ね」文書は、池田先生のスピーチが法主と宗門を誹謗しているなどと書き連ねたうえ、創価学会がベートーベンの交響曲第9番を歌っていることは「外道礼讃」であるとしていた。
なお後日、学会から「お尋ね」の内容の杜撰さを指摘された宗門は、
〈宗務院として、「『お尋ね』に対する回答」を一読し、改めて池田名誉会長のスピーチを聞き直したところ、確かに当方のテープの反訳に相違がありました。但し、故意によるものではなく、テープが聞き取りがたかったことによるものであります。ともかく相違していた点、及びそれに基づいてお尋ねした件に関してはお詫びし、撤回します。〉(「『お尋ね』に対する回答」についての指摘)
等と返答。池田先生を処分する前提に誤りがあったことを、自ら認めた。
学会側は再び話し合いを求めたが、宗門は応じず、期限内に学会が文書で回答しなかったことをもって「学会に誠意なし」とした。
そして、12月26日、27日の両日に臨時の宗会を開いた。この場で日蓮正宗宗規を変更。変更に伴って、それまで法華講本部役員の職にあった者は資格を失うとした。池田先生を法華講総講頭から「資格喪失」という名目で罷免したのだ。
さらに、学会からの反論や宗内からの疑念を予想して、「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」は信徒を処分できるという、強権的な条項を新たに加えた。
計算づくのタイミング
じつは、この臨時宗会に先立つ12月25日、日顕は大石寺大坊の対面所で数人の男たちと密会していた。群馬県の本応寺住職の高橋公純。高橋の実弟で創価学会批判を生活の糧としていたライターの段勲。脱会者で「池田問題対策事務所」の事務局長を自称していた押木二郎らである。
段は、わずか半年前に、「御本尊偽造」云々というデマ記事を週刊誌に書き、その際に日蓮正宗の御本尊をバラバラに解体した写真を掲載している。その男を法主が密かに総本山に招き入れて、謀議をめぐらせたのだった。
この席で日顕は、池田先生を破門して学会を解体する謀略の算段を明かし、「学会員のうち、20万人が山につけばいい」と、驚くべき発言をした。
坊主の言いなりになって宗門への供養を出し続ける信徒が20万人程度確保できれば、坊主の贅沢な暮らしは安定する。折伏だ教学だと真剣に活動する会員が多くては、遊蕩にふける坊主への批判が強まって都合が悪い。だから寺檀制度を甘んじて受け容れる、従順な信徒が20万人だけ手に入ればいいという本音だった。
さらに日顕は段らに対し、反学会ライターだけでなく、各政党や出版社を創価学会攻撃に動員するよう依頼した。その4日前に日顕は、創価学会から寺院の寄進を受けているのだ。
日顕は、学会に弁明の機会を与えずに一方的に池田先生を総講頭から罷免する方法として、〝宗制宗規の変更〟という奇策に出た。日蓮正宗が自宗の宗制宗規を変えることは、僧侶たちだけの宗会で決議できるからだ。
そして、この総講頭資格失効という重大ニュースを、創価学会に何の事前通達もないまま、あえて記者会見を開いて世間に発表した。いきなり12月28日の一般紙やテレビニュースに「池田名誉会長が法華講総講頭罷免」という報道が流れたのだ。全世界の学会員を動揺させ混乱に陥れるための、恐るべき奸知だった。
日顕が、あえて年末ギリギリの時期を狙ったのには理由がある。
通常、学会は12月の半ばから会合を休止する。会員も年末のあわただしい日々を過ごし、帰省などで地元を離れる者も多くなる。日刊の聖教新聞も12月29日から1月3日までは休刊となる。
不意打ちを食らった学会が聖教新聞で反駁しようにも、新聞が出せない。会合も開けない。対応できずにいるうちに大晦日となる。元日の午前零時には全国の末寺で新年の初勤行がおこなわれる。これには毎年、多くの学会員が参詣していた。ニュースを聞いて不安を感じた学会員は、寺側の発表を待ち望むだろう。
ここで住職から「SGI会長に重大な信仰上の問題あり」と発表すれば、学会員は大混乱に陥るはずだと考えていたのだ。
だが、創価学会の対応は素早かった。
総講頭罷免がマスコミ発表された直後には、全国各地で衛星中継の緊急の会合がもたれ、一連の経過について発表された。学会本部は、会員への情報公開を決めた。宗門との間でのやりとりを包み隠さず公表し、何が起きているのかを率直に伝えた。
不安と緊張をにじませて続々と会館に集っていった全国の学会員は、帰路には爽やかな表情で会館をあとにした。数年来、池田先生から深い精神性を学んでいた会員たちは、即座にことの真相を理解したのだった。
要するに、宗門が再び権威主義を振りかざして、広宣流布に励む学会に牙をむいてきた。そうであるならば、われわれは二度と悪僧たちの好き勝手にはさせない。日蓮仏法に照らして、どちらのあり方が正しい信仰なのか、はっきりさせよう――。
衝撃的な罷免の公表から3日後の大晦日深夜、全国の日蓮正宗末寺には、例年どおり学会員が多数参詣した。しかし、元朝勤行が終わり、住職が宗務院から言い含められた池田先生批判の〝説法〟をはじめた途端、会員たちの多くは誰に言われるでもなく席を立って寺をあとにした。
日顕の読みは、完全に外れたのだった。
「魂の独立」記念日
その後、宗門はSGI以外の海外信徒組織を認めないという従来の方針を撤回。さらに大石寺に参詣する際は末寺住職の許可を必要とすると方針変更し、学会員を動揺させるため全国の一般紙に「創価学会の皆様へ」と大書した広告を打って、これを発表した。
第1次の宗門事件から10年。池田先生の薫陶により、もはや学会員ははるかに日蓮仏法の本質を深く理解し、世界市民としての精神性を養っていた。
日蓮大聖人は流罪された佐渡で、高らかに宣言している。
「法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし。三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらん。求めて師とすべし、一眼の亀の浮き木に値うなるべし」(御書新版111ページ・御書全集230ページ)
真実の「法華経の行者」がいるならば、必ず三類の強敵が出現する。そして、今やその三類の強敵は出揃った。わけても最強の強敵が、高位の聖職者の身に入った僭聖増上慢だ。
では、求めて師とすべき「法華経の行者」とは誰なのか。
誰が、経文どおりの悪口や弾圧に耐えて法を弘め、全世界に広宣流布してきたのか。
文字どおり「死身弘法」の実践を貫いてきたのは、創価三代の会長であり、その師とともに戦った創価学会員だ。
国際宗教社会学会会長を務め、池田先生との対談集『社会と宗教』を上梓しているオックスフォード大学名誉教授のブライアン・ウィルソン博士は、初期キリスト教のエルサレム崇拝を例に、「特定の〝聖地〟に行かなければ信仰が全うできないとするのは、世界宗教の要件を欠く」と指摘している。
大石寺に参詣することで広布破壊の暴挙に出た堕落坊主に供養することは、かえって「謗法与同の罪」を免れない。日顕が登山会を切り札にしようとしたところで、学会員たちの信仰は、微動だにしなかった。
追い詰められた日顕は、1991年11月7日、創価学会に「解散勧告書」を送りつけた。宗教法人の認証を得る際に、学会は「日蓮正宗の教義を信奉する」旨を表明している。その日蓮正宗に従わないのなら、宗教法人を解散しろというのだ。
全世界の学会員は〝日蓮正宗の教義を勝手に変えてしまったのは日顕ではないか。学会は一貫して広宣流布に励んでいる〟と一笑に付した。
11月28日、ついに日顕は、創価学会に対して「破門通告書」を出した。だが16ページにも及ぶ通告文のなかには御書の一片もない。日蓮仏法に照らして、宗門が学会を破門できる理由など何ひとつないのだから当然だ。日蓮大聖人は「経文に明らかならんを用いよ、文証無からんをば捨てよ」(新555ページ・全482ページ)と、文証なく邪義をかざす者たちを糾弾されている。
同じ頃、全国の創価学会の会館では、記念幹部会が開催された。
全国1000を超す各地の会館には、この日ばかりは手に手に鳴り物やポンポンを持った会員たちが、笑顔を抑えきれない様子で続々と集った。まるで、ひいきのチームの優勝決定戦にでかけるサポーターのような、文字どおりの嬉々とした顔だった。
日顕が、どうしても理解できていなかったのは、この庶民の逞しさと賢さなのだ。
時代錯誤甚だしい〝破門通告〟なるものを受けた直後の記念幹部会は、そのまま「魂の独立記念日」祝賀の幹部会となった。秋谷会長から破門の一件が語られると、どの会場も場内は爆笑と歓声の渦になり、人々は鳴り物を鳴らして喜び合った。
この「魂の独立」にあたり、池田先生は、「天の時 遂に来れり 創価王」との句を詠んだ。
そして、学会員は明確に法主・日顕こそがすべての謀略を主導した張本人であったことを確認した。
1カ月後の12月27日――これは、日顕が池田先生を罷免してから1年後にあたっていたが――全世界の創価学会員が「阿部日顕法主退座要求書」に署名して、大石寺に送りつけた。その署名の数は、1624万9638人に達していた。(第5回に続く)
※この記事は『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(青山樹人著/鳳書院)から全5回にわたって抜粋し、一部加筆したものです。
三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
第3回 第1次宗門事件の謀略
第4回 法主が主導した第2次宗門事件
第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会
『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』
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