三代会長が開いた世界宗教への道③――第1次宗門事件の謀略

ライター
青山樹人

妙信講の異常な主張

 大恩ある創価学会とその指導者に対し、あろうことか不満や敵意を抱きはじめた日蓮正宗の出家たち。この宗門内部の微妙な変化を最大限に利用したのが、のちに創価学会を恐喝して懲役3年の実刑判決を受け服役した山崎正友だった。
 創価学会学生部出身者として第1号の弁護士になった山崎は、1970年から学会の顧問弁護士を務めていた。
 じつは大石寺に正本堂の建設が進んでいたこの時期、日蓮正宗内に厄介な問題が起きていた。当時、ごく少数の組織ながら独自の「講」として宗内に存在していた妙信講なる一派が、憲法を改正し、国会の議決をもって建設される「国立戒壇」こそが日蓮大聖人の遺命であると主張しはじめたのだ。
 正本堂を「本門戒壇」と意義づけたのは、創価学会ではなく日蓮正宗である。
 1965年9月12日、宗務院は「大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布のいよいよ事実の上において成就されることなのであります」との「院達」を宗内に発している。日蓮正宗が出した供養の趣意書にも「正本堂建立は実質的な戒壇建立」と明記されていた。
 だからこそ、予想の10倍を超える355億円という供養が集まった。その98%以上は創価学会員によるものだった。

カルト化して顕正会となる

 このとき、妙信講もまた「千載一遇のご奉公」「私たちの生涯に二度とはない大福運」等と講内に檄を飛ばして供養を呼びかけている。
 1969年1月に本山で開かれた第1回寺族指導会で、日達は「池田大作先生の大願によって本門戒壇がまさに建たんとしているわけです」と述べた。同様の法主見解は69年3月の宗門誌『大白法』にも登場する。
 ところが1970年になると妙信講は主張を180度変え、「本門戒壇」は国費で建設されるべきなどと言いはじめた。すべては妙信講の中心者による池田先生への嫉妬であった。
 彼らは急速にカルト化し、自己の主張を通すためには流血の事態も辞さないと脅迫。実際に創価学会本部に街宣車で突入して、実行犯らが警視庁に逮捕されるという異常行動にまで及んだ。
 たび重なる反社会行為と独自路線の先鋭化によって、74年、日達は妙信講を破門し、講中解散処分とした。
 その後、彼らは顕正会と名称を変え、自分たちの会員数を増やさなければ「大地震が起きる」「外国が攻撃してくる」等といった終末思想を叫ぶ奇怪な教団に変貌していく。
 各地で高校生らを強引に勧誘するなどし、暴行事件や監禁事件を起こして会員が逮捕される事態を繰り返している。各地の教育委員会でも警戒を強め、マス・メディアもたびたび顕正会の危険な実態を報道してきた。2006年に公安調査庁のまとめた「内外情勢の回顧と展望」でも、オウム真理教などと並んで顕正会は危険な「特異集団」として取り上げられている。
 山崎正友は弁護士として、この妙信講問題への対処などで頻繁に宗門と接触するようになっていった。
 そして、宗門の僧侶たちが広宣流布などいささかも真剣に考えていないばかりか、あきれるほど社会性がなく、信心の実力がない故に〝僧衣の権威〟で信徒を見下し、俗よりも金と欲にまみれている実態を知っていくのである。
 山崎が信仰心を完全に失い、策を弄して宗門中枢に接近し、学会首脳に隠れて私利私欲を貪るに至るには、そう時間のかかることではなかった。

山崎を「軍師」と仰いだ僧侶たち

 日蓮正宗の内部では、1976年頃から、日達を師僧として得度した若手僧侶たちによる先鋭化した反学会の動きが目立ってきた。
 山崎正友は妙信講問題の対応で本山に出入りしていく時期に、このうちのひとりである浜中和道と親しくなっていた。もちろん山崎に人間としての信義などあろうはずもない。最終的に浜中は、山崎に利用されるだけ利用されたあげくに使い捨てられ、さらに自分の妻を山崎に奪われるという裏切りに遭う。
 この浜中が日達上人の側近であったことに山崎は目をつけた。浜中を介して宗門中枢に食い込む一方、そうした若手僧侶のなかにくすぶっていた反学会感情を手玉に取り、池田先生や学会が宗門を軽視しているかのような〝情報〟を吹き込んで籠絡していったのだ。
 まともな人間なら、顧問先を裏切るような弁護士など信用しない。だが、世間知らずの若い出家たちは、山崎を「軍師」と呼んで喜んで迎え入れた。
 山崎は、学会顧問弁護士という立場を最大限にカモフラージュに利用した。宗門内部には〝学会が宗門を支配しようとしている〟という話を入れる。学会本部に戻ってくると、深刻な顔で宗門の不穏な動きを伝え、自分が仲介しなければ事態が収束しないかのように演出する。
 山崎のやったことは、自分でマッチを擦って放火をしながら、火事だと騒ぎ、平然と消防士の顔をしてポンプで水をかけるふりをするという〝マッチポンプ〟だったのだ。
 山崎は、その火をつける道具として雑誌メディアに目をつけた。
 77年7月になると、『週刊新潮』(7月28日号)が、「メッカ大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ただ今ゼロ」と題する記事を掲載した。山崎が仕掛けたデマ報道だった。
 この年の夏頃から、山崎は創価学会の顧問弁護士でありながら、その創価学会を陥れるさまざまな情報操作を仕掛け、これを複数の週刊誌編集部に密かにリークしていった。
 騒ぎのないところに火種をつくっては、自分で週刊誌に情報を流して書かせ、大きな煙を出す。そのたびに、学会に反感を持つ僧侶たちは勢いづき、学会首脳は対応に苦慮する。その結果、ますます山崎が動かなければ事態が好転しないかのような状況をつくり上げていったのだ。
 山崎の狙いどおり、反創価学会の動きは宗内に拡大する。寺院の御講や葬儀という席で、住職が週刊誌片手に池田先生や創価学会を公然と罵るような事態が急増していった。

「七つの鐘」終了の年

 1979年は、創価学会にとって「七つの鐘」の鳴り終わる佳節の年となっていた。
 これは戸田先生が逝去した直後の1958年5月3日の総会で、全同志に希望を贈るべく、当時の池田青年室長が発表した構想だった。
 学会は1930年の創立以来、不思議にも7年ごとに大きな節目を刻み、嵐を乗り越えて前進してきた。1937年の創価教育学会発会式までの7年が第一の鐘。牧口先生の殉教までが次の7年。戸田先生の第2代会長就任までが次の7年。戸田先生が75万世帯の願業を達成して逝去した58年は、第四の鐘にあたっていた。
 池田青年室長は、学会創立から50年目となる1979年を「七つの鐘」が鳴り終わる年として示し、全同志にまずはこの年をめざして前進しようと呼びかけたのだった。
 そして、創価学会は絶頂期でこの「七つの鐘」が鳴り終わる年を迎えていた。名実ともに国内最大の民衆運動となり、一大平和勢力となっていた。これを率いる池田先生はまだ50代に入ったばかりで、世界の指導者との対話を拡大していた。
 池田先生は、さらに世界での指揮を執るため、以前から何度も会長職を交代したいと考えていたのだった。嵐のなかで、その「七つの鐘」がひとたび鳴り終わる1979年の5月3日が目の前に迫っていた。

「共戦」と「正義」の揮毫

 池田先生を追い落とそうとする集中砲火のなかで、先生は泰然と未来を見据えていた。
「七つの鐘」が鳴り終わろうとする今こそ、21世紀へ向けて、いよいよ世界広宣流布の本格的な建設期に入らなければならない。
 4月12日、先生は元赤坂の迎賓館で来日中の鄧穎超と7カ月ぶりに再会した。故・周恩来総理の夫人であり、この折は全人代代表団の団長として衆参両院議長の招きで訪日していた。
 翌13日には、これまで何度も語らいを重ねてきた松下幸之助と会談。16日には、米国の前国務長官キッシンジャーの来訪を出迎えた。
「波浪は障害に遭うごとに、その頑固の度を増す」――若き日からの座右の銘のとおり、池田先生は、襲い来る障魔の大波をも、新しい時代の扉を開く好機に転じようとしていた。
 1979年4月24日の午後。テレビ、ラジオがいっせいに「池田会長が辞任へ」という速報を告げた。全国紙の各紙夕刊は1面でその出来事を大きく報じた。
 驚いたのは、全世界の創価学会員だった。会長就任以来、19年間。ひたすら会員同志を励まし、激闘につぐ激闘で学会を日本一の民衆勢力に発展させ、世界に仏法をひろめたのは「池田先生」である。その大功労者である先生が、なぜ会長職から退かねばならないのか、と。
 同日夜、信濃町の聖教新聞本社で記者会見が開かれ、池田先生が名誉会長になり、北条理事長が第4代会長に就任することが発表された。
 翌日の『朝日新聞』朝刊は解説記事のなかで、こう触れている。
〈池田氏は辞任について事前に外部の人と相談した気配はないが、その意向をなんとなくもらした人として先に来日した故周恩来氏の夫人鄧穎超さん、キッシンジャー前米国国務長官のほか、財界の松下幸之助氏らをあげているが、いずれも反対されたという。〉(『朝日新聞』1979年4月25日)
 同時に法華講総講頭も辞任。しかし、1975年に就任したSGI(創価学会インタナショナル)会長であることには変わりなかった。

「われ一人正義の旗持つ也」

 9日後の5月3日。八王子市の創価大学中央体育館を借りて創価学会第40回本部総会が開催された。
 創価大学に到着したバスから降りてくる日蓮正宗の僧侶たちを、池田先生は照りつける太陽の下に立ってていねいに出迎えた。だが、僧侶たちは大功労者の前を傲然と通り過ぎていった。
 万余の会員が埋め尽くす体育館。「七つの鐘」終了の佳節を慶祝する晴れやかな式典のはずであったが、壇上席の半分は袈裟を着た僧侶たちが占め、冷たい表情で会員たちを見おろしている。
 凍りついた空気のなか、総会では北条浩・新会長の挨拶、日蓮正宗・細井日達法主の特別講演などがあった。
 本部総会を終えた池田先生は、創価大学の一室で「大山」「大桜」と揮毫した。そこには愛する同志への〝嵐に不動の信心たれ〟〝功徳満開たれ〟との烈々たる思いが込められていた。
 先生夫妻は創価学会本部には帰らず、そのまま横浜に向かい、午後7時前、山下公園の正面に落成したばかりの創価学会神奈川文化会館に到着した。
 出迎えた同志に、池田先生は「私は元気だから大丈夫だよ。創価学会は何も変わらないから安心して」と励まし、「もう使わないから、記念に」と〝創価学会会長〟の名刺を配った。
 この5月3日の『読売新聞』には、同新聞社と米国ギャラップ社が実施した日米の生活意識調査の結果が掲載されていた。
 日本国民が選んだ「最も尊敬する有名な日本人」上位20人は、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、昭和天皇と続き、6位が〝池田大作〟となっていた。現存する民間人では1位で、宗教界からはただひとりである。民衆の支持は明白だった。
 この夜、池田先生は筆をとり、一気呵成に「共戦」と揮毫した。
 脇書きには「生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを信じつつ 合掌」と綴った。
 この揮毫が公表されるのは、30年後の2009年のことである。さらに5月5日、池田先生は「正義」と揮毫した。
〈神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界の指揮を執ろう! 小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、世界に向けて指揮を執ろう! そう決意していたのである。〉(「2006年1月12日 神奈川・静岡合同協議会」/『聖教新聞』同年1月16日付)
〈第三代会長を辞任した直後の昭和五四年五月五日。
 吹き荒れる迫害の烈風のなか、私は、ここ神奈川文化会館で筆を執り、「正義」の文字を認めた。そして、その脇に「われ一人正義の旗持つ也」と記したのである。
 何があろうと、正義は正義である。ゆえに、絶対に勝つのだ。愛する同志とともに、世界広布を断じて成し遂げるのだ――これが私の決意であった。〉(同)

600軒の功労者宅訪問

 5月6日夜、4日間の滞在を終えて神奈川文化会館を出発する池田先生は、見送る同志に新しい名刺を配った。「創価学会インタナショナル会長 池田大作」――。
 第3代会長の職を辞任した今、宗門は池田先生が学会の会合に出席して指導することはもちろん、聖教新聞紙上にそれらの報道をすることも牽制した。
 会員と池田先生の絆を断つことこそ、学会を解体し、宗門の意のままにしていく上でのポイントだと、山崎正友が宗門に入れ知恵していたのだ。会員の敬愛の思いとは裏腹に、聖教新聞紙上から、池田先生の姿が消える日々が続いた。
 しかし池田先生は、会合に出られないのなら、自分から同志の家々を回ろうと、広布草創からの功労者の家々を一軒一軒と回りはじめた。
 あるときは共に勤行をし、あるときはサンダルを借りて縁側にならび、あるときは同志が営む質素な店先で語らい合った。この功労者宅訪問は、79年以降だけで600軒を超えた。
 同時に、いよいよ創価学会インタナショナル会長として世界で戦う。こう決めて、今まで以上に世界との対話を開始した。
 5月19日には中日友好協会の廖承志会長と会談。席上、廖氏からは訪中の要請があった。22日にはソ連ノーボスチ通信の一行と会談。25日には駐日ザンビア大使と会談。29日には中国文芸会の周楊氏と会談している。
 この79年後半だけで、主な人物としては各国大使のほか、この年に話題となった『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者であるハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授、インドの詩人スリニバス博士、ローマクラブの創始者アウレリオ・ペッチェイ会長、ソ連のグジェンコ海運相らと会談している。
 この1979年という年は、今日から振り返るとき、戦後の世界史を分かつような節目となっている。元日に米中が国交を樹立。2月にはイラン革命が起き、その後のイラン・イスラム共和国の成立へと続いていく。6月にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が東側陣営であったポーランドを訪問。10月には韓国で朴正煕大統領が暗殺され、12月にはソ連のアフガン侵攻がはじまった。中東の不安定化と今日に続くイスラム原理主義の台頭など、それまでの冷戦構造に基づいた〝秩序〟が揺らぎはじめていた。
 ここから冷戦崩壊までは10年。世界は激動のなかで、新しい羅針盤を、平和と統合の思想を求めていた。(第4回に続く)

※この記事は『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(青山樹人著/鳳書院)から全5回にわたって抜粋し、一部加筆したものです。

三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
 第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
 第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
 第3回 第1次宗門事件の謀略
 第4回 法主が主導した第2次宗門事件
 第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会


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あおやま・しげと●著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書店)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書店)、『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(2022年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。