芥川賞を読む 第17回 『家族シネマ』柳美里

文筆家
水上修一

映画という虚構の中で、家族の実像を浮かび上がらせた

柳美里(ゆうみり)著/116回芥川賞受賞作(1996年下半期)

舞台を観ているような展開

 第116回の芥川賞は2作品が受賞。柳美里の「家族シネマ」と辻仁成の「海峡の光」だ。いつも手厳しい石原慎太郎もこう述べている。

箸にも棒にもかからぬような候補作とつき合わされる不幸をかこつこともままあるが、今回はどの作品も一応は読ませてくれた

 今回はまず柳美里の「家族シネマ」を取り上げる。受賞時は28歳。27歳の時にすでに「フルハウス」と「もやし」でそれぞれ113回と114回の芥川賞候補となっている。また、「フルハウス」は第24回泉鏡花文学賞と第18回野間文芸新人賞を受賞していて、その実力は折り紙付きだった。
「家族シネマ」は、『群像』(1996年12月号)に掲載された約120ページの作品。最大の特徴は、設定のおもしろさだ。詳細は省くが、ひょんなことから、すでに崩壊している家族五人(父・母・私・妹・弟)が映画の出演者となり、ドキュメント的な家族再生物語の映画を撮ることになったのだ。映画の設定としては、バラバラになった家族が再び一緒に暮らし始めるという方向に進んでいくようなのだが、撮影の合間にかわされる家族のコミュニケーションは以前と変わらず刺々しく家族愛というものからは遠いものだし、映画の台詞には〝本物の〟怒りや鬱憤が噴出している。
 各人がそれぞれに問題を抱えた風変わりな家族のなかで、主人公である私は孤独で、自分の居場所を見つけられない。そうした家族の問題を扱った作品はたくさんあるが、この作品は、本物の家族を映画という虚構の世界の中に置くことによって、本物の家族のもつ問題の輪郭をより明確に浮かび上がらせる効果があった。
 選考委員の河野多恵子は、こう述べる。

その特殊な家族を、その人たちの家族シネマ出演という絶好の着想のもとに描きだす。その人たちに求められているのは虚の家族シネマであって、そのために作品には実が出現する。虚と実の展開してゆく様相に引き込まれた

 同じく日野啓三も賞賛する。

壊れた家族が映画という虚の次元で本心を言うことができ、同時にそこでさらけ出された実が逆に家族崩壊を加速する、というめまいするような事態が小説という虚構の場に現出されていると思った

 ただ、この設定に異を唱える選考委員もいた。丸山才一はこう指摘する。

設定の基本にいろいろと無理がある。たとへば制作の費用はどういふ資本によるのか、映画の配給はどうなる見通しなのか、その他あれやこれやのことが一切わからず、読者は不安で仕方がない

 賛否があってもこうした設定こそがこの作品の強みであることは間違いないのだが、作者はどうしてこういう設定を考えたのか。おそらく作者がもともと演劇出身者だということも影響しているのだろう。高校を中退して東由多加の劇団「東京キッドブラザース」に加わり、1987年には「青春五月党」を旗揚げし、翌年には自身も劇作家デビューしている。そこで培った演劇的な展開や会話の妙が、作品にも見事に活かされている。
 そのことについて三浦哲郎はこう述べる。

読んでいるうちに舞台を観ているような錯覚に陥るほど、小説よりも戯曲に近い趣の作品だが、場面の転換、台詞の切れ味、小道具の使い方は、舌を巻くような鮮やかさである

どこまで書くか書かないか

 文章の鮮やかさは誰もが納得するところだが、あえて〝書かない〟ことで読み手に想像させるという技法も評価を得ていた。すべてのディテールを書きすぎると、文章がだらけてしまう上に、読み手の想像力が求められないので、つまらなく感じるのだ。
 河野多恵子は、こう評価している。

柳美里さんは、珍しく省略ということを弁えている。省略の心がけは表現上の効果ばかりでなく、まず観る眼の鍛錬と発想の刺激という功徳をもたらすものである

 また、少し余談だが、池澤夏樹はこんな苦言を呈している。

全体として、何本も柱を立てているのに、それがどれも梁に届いていない感じ

どういうことかというと、作品に盛り込んでいるパーツは多いけれども、それが描こうとするテーマにつながっていないというのだ。この作品では、映画撮影時の描写とは別に、主人公が働く会社のこと、同僚男性との関係、そして奇妙な性癖をもつ彫刻家の老人など、いろんなパーツが盛り込まれているのだが、それが充分な効果を果たしていないというのである。
 私個人としては、奇妙な彫刻家の老人の話はおもしろく、それがなお一層作者の孤独や社会に対する違和感を際立たせていると感じたのだが、どこまでパーツを入れ込むかというのは、本当に難しいところである。それらがテーマを支えていなければ、長ったらしいブヨブヨした作品に感じられるし、かといって書き込み不足になるとテーマが鮮明に見えてこないこともある。結局、過不足なく充分に書き込んで、ギリギリまで削ぎ落していくという基本を磨き上げるしかないということを痛感する。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。