三代会長が開いた世界宗教への道①――日蓮仏法の精神を受け継ぐ

ライター
青山樹人

100年前に「世界市民」を示す

 20世紀が開幕する1901年に北海道から上京した牧口常三郎先生は、苦心の末、その2年後の10月に『人生地理学』を出版する。時に32歳だった。
 この著作の中で牧口先生は、一人ひとりの人間が「一郷民」「一国民」「一世界民」それぞれの自覚に立つべきことを促している。
 あくまでもひとりの生活者として、まず郷土に目を凝らし、そこから国内や海外の出来事に視野と想像力を広げていく。他国民をも自分と有縁の存在だと認識していくことで、自分自身がこの地球上で共に生きる「一世界民」だと自覚できる。
 日露戦争の開戦直前、日本にも世界にも帝国主義の嵐が吹き荒れていた渦中、牧口先生はローカルとグローバルの両方の視点に立った「世界市民」の概念を早くも提唱していた。
 また、その一人ひとりの「民」が安心して暮らせる社会をつくるために、各国は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移行していくべきであり、日本がその模範となるよう説いている。
 この『人生地理学』出版の翌年の1904年、牧口先生は嘉納治五郎が創立した弘文学院(後に「宏文学院」と改称)の地理教師になっている。
 日清戦争のあと、中国(当時は清)から日本への留学生が急増し、弘文学院もそうした中国人留学生に日本語教育と普通教育を授ける教育機関として創立されていた。
 牧口先生の講義は、受講した留学生の手によって中国語で編集され、1906年には『江蘇師範講義 第七編 地理』として江蘇省で発行されている。さらに07年には上海で同じく中国語版の『最新人生地理学』として出版されている。

中国の近代化への影響

 甲南大学の胡金定教授は、当時、日本から中国に送られた翻訳書の数々が、出版技術の発展と思想の浸透のふたつの点で、中国の近代教育事業に大きな貢献を果たしたと指摘している。
〈牧口常三郎創価学会初代会長の論著『人生地理学』も中国語に漢訳され、中国で教科書として読まれていきました。〉(『第三文明』2019年12月号)
 さらに胡教授は、『人生地理学』が中国に与えた影響として、
〈①中国の郷土地理教育において世界の地理を理解することを重視するようになった〉
〈②『人生地理学』が示す国家と個人の関係が、中国社会への民主思想学説の伝播に大きな役割を果たした〉(同)
と述べている。
〈牧口会長の『人生地理学』は、過去の翻訳だけにとどまることなく、現在もなお翻訳され続けています。二〇一五年には、中国の教育分野で最大の出版社である人民教育出版社から、国家重点図書出版プロジェクト「漢訳・世界教育経典シリーズ」の一つとして、『牧口常三郎教育論著選』とのタイトルで出版されています。〉(同)
 のちに池田大作・創価学会第3代会長が初訪中し、さらに第2次訪中で周恩来首相と会見したのは、牧口先生が弘文学院の教壇に立って70年後の1974年のことだった。

『創価教育学体系』刊行

 この『人生地理学』によって牧口先生は高い評価を受け、これを読んだ新渡戸稲造や柳田国男らと交友を結んでいる。
 牧口先生はまた女性教育の先駆者でもあった。
 1905年、牧口先生が主幹となって、女性のための通信教育をおこなう大日本高等女学会が設立されている。
 高等女学校が設置されていない地方に住む者や、経済的事情などで高等教育を受けられない女性のための通信教育で、翌年には全国で会員数2万人を超えた。
 牧口先生は嘱託として文部省に勤めたあと、1913年に東盛尋常小学校の校長に就任。16年には大正尋常小学校の初代校長も兼務した。
 画期的な公開授業をするなど先駆的な教育方針が注目された一方で、政治権力の威に媚びない姿勢が疎んじられ、1919年の年末には西町尋常小学校に異動させられる。
 牧口先生が戸田甚一(戸田城聖・創価学会第2代会長)青年と出会うのは、この人生の苦境にあった1920年初頭のことだ。
 日本の教育界がますます〝国家のための教育〟へと傾斜していくなかで、牧口先生は長年の自身の思索と実践の成果を学説としてまとめ、発表したいと考えるようになった。
 その牧口先生の畢生の大著である『創価教育学体系』は、彼を師と仰ぐ戸田青年の全面的な尽力によって世に出た。発刊日は1930年11月18日。発行所として創価教育学会という名称が初めて公になったこの日が、のちに創価学会の創立記念日と定められた。
 戸田先生もまた教育者であり、自身が戸田城外名で著した『推理式指導算術』は戦前、数多くの受験生から絶賛されてミリオンセラーとなっている。

自立した在家運動の確立

〈一九二八(昭和三)年に、牧口はふとしたことから、三谷素啓という人物の存在を知る。興味を持った牧口は、さっそく三谷を訪ね、その後十日ほど彼の家に通い続けている。
 三谷は、日蓮正宗の信徒であった。二人の話し合いは、日蓮が著した「立正安国論」の話が中心になったのではなかろうか。牧口は、この議論をきっかけにして、日蓮仏法の研究を決意したようである。〉(『評伝 牧口常三郎』)
 牧口先生と戸田先生が相次いで日蓮正宗に入信したのは、1928年のことだった。
 日蓮正宗は、日蓮大聖人が本弟子とした六老僧のひとり・日興の門流を汲む宗派で、総本山は静岡県富士宮市の大石寺。日蓮正宗と改称したのは明治時代の末期で、20世紀初頭には、まだ日蓮宗富士派と称していた。
 牧口先生は、すべての子どものなかに、自分で自分を幸福にする力があるという信念をもっていた。そして、教育の至上価値は、一個の人間の生活上に価値を創造し、人類社会に貢献することだと考えていた。
 日蓮仏法は、その人間生命を変革し、万人が仏になれる方途を解き明かしている。同時に、一人ひとりが正法に立脚することで社会の安寧と世界の平和を実現する「立正安国」という理念を最重視していた。牧口先生は、日蓮大聖人の仏法に強く共鳴した。
 日蓮大聖人が立正安国論を著す大きな契機となったのは、武家政権の中心地・鎌倉に壊滅的な被害をもたらした「正嘉の大地震」(1257年)だった。
 牧口先生が日蓮仏法に関心を寄せ、『創価教育学体系』の出版へと進むことになったひとつの背景にも、1923年の関東大震災がある。
〈関東大震災の直後から日本の社会は深刻な経済恐慌に陥っていた。そのなかで、一九二五(大正十四)年には、いわゆる男子の普通選挙法と共に、後に牧口を獄舎に繋ぐことになる治安維持法が公布されている。そして、一九二七(昭和二)年から二八(同三)年にかけて、日本は三度中国へ派兵し、国家主義・軍国主義の色合いを強めていた。
 大震災に遭遇し、その後の社会の動きを注視していた牧口にとって、すべての子どもたちの幸福は、まだまだ遠い夢のように感じられていた。それでも、日蓮仏法との出会いは、彼の勇気を限りないものにしたのである。〉(『評伝 牧口常三郎』)
 創価教育学会は次第に、日蓮仏法の実践によって生活上に変革の実証を求めていく信仰団体へと昇華していく。
 ただし、それは寺檀制度としての法華講のような集団ではなかった。
 日蓮大聖人の思想は徹底した平等主義に貫かれている。門下への書状にも、
「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず、法華経を持たせ給う人は、一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(御書新版1542ページ・御書全集1134ページ)
と明確に記されている。
 寺院に隷属することなく、自立した在家集団として日蓮仏法を実践する創価教育学会のあり方は、日本がファシズムに覆われていくなかで、宗門との決定的な違いとなって表れた。

獄中で正義を貫き殉教

 1931年に関東軍が起こした満州事変を口実に、日本は満州を占領。やがて日中戦争の泥沼に突入していく。
 41年には米英に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発。軍部政府は総力戦遂行のために国家神道による思想統一を図り、伊勢神宮の遙拝や神札の奉掲を国民に強要する。
 当時の宗教界の大部分は、こうした思想弾圧に抗するどころか、弾圧を恐れてむしろ積極的に軍部に協力し、戦争を賛美し、信徒に挙国一致を呼びかけていった。
 日蓮正宗も例外ではない。宗門は日蓮大聖人の遺文から「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(御書新版1315ページ・御書全集974ページ)など、軍部政府の宗教政策に不都合な部分を14カ所も削除。
 太平洋戦争が開戦すると法主の訓諭で「恐懼感激」と戦争を称賛し、翌年には宗務院の院達で伊勢神宮の遥拝を全末寺と信徒に命じている。
 これに対し、牧口先生は特高警察の監視と妨害をものともせず、全国各地にまで赴いて言論戦を展開した。
 1943年5月、牧口先生は警視庁中野署に一週間留置された。創価教育学会が入会者に神札の破棄を指導していた件で取り調べを受けたのだ。
 あわてた宗門は6月27日に牧口会長と戸田理事長、ほかに理事7人の学会首脳を総本山に呼び出した。弾圧が及ぶことを恐れた彼らは、法主立会いの場で、創価教育学会に神札の受諾を迫ったのだった。
 牧口先生は「神札は絶対に受けません」と拒絶して下山。
 7月6日、牧口会長は折伏に訪れていた伊豆・下田で逮捕され、警視庁に移送された。同日、戸田理事長も東京で逮捕。容疑はいずれも治安維持法違反と不敬罪であった。
 在家信徒が宗祖の精神を貫いて逮捕されたにもかかわらず、日蓮正宗は累が及ぶことを恐れて両名に登山停止の処分を下した。牧口先生は獄中でも取り調べの検事に対して自身の宗教的信念を述べ、果敢に対話に挑んでいる。
 学会創立からちょうど14年目の1944年11月18日、牧口先生は信教の自由を貫いて獄中に逝去した。享年73歳。老衰だった。
 日本がファシズムに狂い、自国民ばかりかアジアの幾多の民衆に塗炭の苦しみを与えていった時代。日本の宗教界は弾圧を恐れてこぞって戦争を賛美し、国民を戦時体制へと動員した。最高指導者の獄死をもって弾圧に抵抗した宗教団体は、創価教育学会だけである。(第2回に続く)

※この記事は『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(青山樹人著/鳳書院)から全5回にわたって抜粋し、一部加筆したものです。

三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
 第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
 第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
 第3回 第1次宗門事件の謀略
 第4回 法主が主導した第2次宗門事件
 第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会


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あおやま・しげと●著書に『宗教はだれのものか』(2002年/鳳書院)、『新装改訂版 宗教はだれのものか』(2006年/鳳書店)、『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』(2015年/鳳書店)、『新版 宗教はだれのものか 三代会長が開いた世界宗教への道』(2022年/鳳書院)など。WEB第三文明にコラム執筆多数。