先回のこのコラムで『弱さの思想』を取り上げた。実は、この『――の思想』は3部作で、最初が『弱さの思想』、次が、『雑の思想』、最後に、『「あいだ」の思想』となる。3冊ともすごくおもしろかったので、順にこのコラムで取り上げていきたい。
今回は、『雑の思想』である。この本も対談集となっている。小説家と研究者の立ち話を聴くつもりで、気軽に読んでもらいたいとおもう。しかし中身は濃い。そこがこのシリーズのいいところだ。
さて、「雑」というと、一般的にあまりいい意味で使われない。いい加減な仕事をすると、雑な仕事だといわれる。あるいは、部屋の中が散らかっていると、雑然としているといわれる。明らかに否定的なニュアンスを含んだ言葉だ。
ところが、小説家の高橋源一郎と人類学者の辻信一は、「雑」に肯定的な意味、価値を見出そうとする。高橋が触れているなかで印象的なのは、小説家の言葉だ。
2014年、ウクライナ南部にあるクリミア自治共和国へロシアが侵攻した。多くの専門家と称する人々が、この出来事について解説をした。しかし高橋はそのどれを読んでもよく分からなかった。
それが高橋の好きな小説家リュドミラ・ウリツカヤの書いたクリミアの土地と歴史についての文章を読んで、「生々しいクリミアが見えてきました」という。いわゆる専門家たちの言葉は、クリミアを政治、領土の問題に還元して、単純化して語る。
それに対して作家はクリミアの複雑さを描きだす。複雑性に向かう作家の言葉は、いまのような時代には最良な反撃だ
と高橋。
ぼくは、作家の仕事は複雑なものを複雑なままに表現することだと思っています
ともいう。
僕は大学でクリエイティブ・ライティングのクラスを担当しているが、毎年、3・11の1年後に発行された東北の地方紙の話をする。その新聞は震災で亡くなった1万人を超える被災者を数字ではなく、ひとりひとりの固有名で掲載した。これは文学の態度である。
高橋も同じようなことをいっている。
セオリーとか原理に還元するのではなく、生々しい歴史や事実から出ない
それこそが、要するに「雑」なんじゃないか』『ぼくたちがいま問われている多くの問題は、じつは「雑」を消去して単純な何かに還元する、一種の還元主義(リダクショニズム)から生まれているのかもしれない
「雑」が民主主義に通じるという話もおもしろい。
ルソーは、代議制民主主義を徹底して批判している。彼は政党をつくるのはだめだという。たとえば3万人の人がいて、さまざまな考えを持っている。それがいくつかの政党の方針に吸収され、まとめられた瞬間に、「民主主義のもっとも重要な思想的な意味が死ぬ」。
ルソーは、3万人の考えがばらばらのままで投票しろ、そして、それで決まったらその結果に従えと書いています。結果は問題じゃないと言っている。そこも重要です
と高橋。
多様性を犠牲にしないで、どのように共同体をまとめていくか。どう折り合いをつけていくかが問題になりますね
と辻。
ここからさらに深く民主主義が論じられていくのだが、宮沢賢治が登場するくだりはスリリングだ。人類学者の辻はいう。
賢治は決してメタファーとして動植物を描いたのではなくて、動植物をはじめ、無生物も含めた者たちからなるコミュニティや社会を考えていた。それって、いまから思えばすごくラディカルなエコロジー思想ですよね
例として、『なめとこ山の熊』を挙げて、
あれは人間界を映しだすための寓話ではないですね。文字通り、動物たちや人間たちを同列の参加者とした一種の民主主義、社会のありかたを考えている
と辻。
宮沢賢治は、僕もとても好きな詩人・作家で、辻の意見には同意できる。
文学、民主主義と、この本のなかで論じられている話題に触れてきたが、ほかにも「雑」にまつわる多くの問題が扱われている。先回取り上げた『弱さの思想』と同じく、一般に否定的に考えられるものに、肯定的な意味を見出し、ものの見方を転倒させていく。
これは批評の役割だろう。実際、よく考え、練られた批評を読んだような、読後感がある。次回のこのコラムは、『「あいだ」の思想』です。お愉しみに。
お勧めの本:
『「雑」の思想 世界の複雑さを愛するために』(高橋源一郎+辻信一/大月書店)