芥川賞を読む 第16回 『蛇を踏む』川上弘美

文筆家
水上修一

理性と対称的な根源的な仄暗い力や衝動のようなもの

川上弘美(かわかみ・ひろみ)著/第115回芥川賞受賞作(1996年上半期)

石原慎太郎の辛辣な評価

 第115回の芥川賞は、当時38歳だった川上弘美の『蛇を踏む』が受賞した。『文学界』(1996年3月号)に掲載された約75枚の作品だ。
 この作品は、「ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった」という鮮やかな一文から始まる。その蛇が女に変身し、「自分はあなたの母親だ」と言い張り、主人公のヒワ子にも蛇の世界にくる(蛇になる)ことを何度も勧める。ヒワ子は、蛇の世界に魅かれながらも、その誘惑に抗い蛇にはなるまいと格闘する。
 一種の変形譚(人間が動植物などに変る転身物語)だが、この作品では、人間が蛇になるのではなく、蛇が人間になる。人間は、あくまでも蛇になることと格闘するのだ。
 この作品に対する選考委員の評価はきれいに2つに分かれた。まず厳しい評価を与えたのが、前回の選考会から参加した宮本輝と石原慎太郎だった。2人が共通して推したのは、この作品ではなく、福島次郎の『バスタオル』だった。
 宮本輝はこう述べる。

蛇が人間と化して喋ったりすることに、私は文学的幻想を感じない。そんなものはイソップか民話で充分だと思っているので、私は最後まで『蛇を踏む』の受賞に反対意見を述べた。寓話はしょせん寓話でしかないと私は思っている

 石原慎太郎はさらに辛辣な言葉で切り捨てる。

私には全く評価出来ない。蛇がいったい何のメタファなのかさっぱりわからない。メタフィクション流行りの当節とはいえ、こんな代物が歴史ある文学賞を受けてしまうというところにも、今日の日本文学の衰弱がうかがえるとしかいいようない

 蛇になることを勧める蛇と、蛇になることを拒絶する女性。この蛇は何を表現しているのか、わかりづらいのだ。個人的には、現代に生きる人間の理性とは対称的なところにある根源的な仄暗い力や衝動のようなものを象徴しているのだろうかと思ったが、どうもはっきりしない。
 石原慎太郎が求めたものは、誰人の心も動かすようなもっと骨太なテーマや人間を描く物語であって、あまりにも微細で些末な物語が多すぎると嘆いているように思える。

作者のその後の息長い活躍

 けれども、黒井千次の選評には、この作品への向き合い方自体をちょっと変えてくれるヒントがある。

「蛇を踏む」の面白さは、理屈で説明するのが難しい。この種の小説にあっては、描かれる世界の意味や隠喩の形を探ることよりも、まず作品の中にするりとはいりこめるか否かが勝負であり、柔らかな息遣いの文章によって、その難問が自然に超えられていると感じた

 表現しづらい何かを何万字もの物語によって表現しようとするのが小説を書く行為だとすれば、薄ぼんやりと感じるものが少しでもあれば、書き手の目的は成功したと言えるのかもしれない。
 強く推したのは、日野啓三と丸谷才一だった。
 日野啓三はこう述べる。

前作に比べて格段に強くしなやかになった作者の文章の力が、現代日本の若い女性たちの深層意識の見えない戦い――というひとつの劇的世界を文章表現の次元に作り上げた

 丸谷才一はこう言う。

普段の暮しのなかにたしかにある厄介なもの、迷惑なものを相手どらうとしてゐる。それがじつに清新である

 川上弘美は、その後も、幻想的な世界と日常が織り交ざった描写を得意として書き続け、長く活躍している。「第9回紫式部文学賞」「第11回伊藤整文学賞」「第37回谷崎潤一郎賞」「第66回読売文学賞」「第44回泉鏡花文学賞」などを受賞し、令和元年には紫綬褒章までもらっている。賞を取ったからすごいというわけではないが、広く認められて長く活躍している事実を見れば、丸谷才一の「有望な新人を推すことができて嬉しい」という選評の一文は、結果として間違いなかったということになる。
 芥川賞は満場一致で決まることは意外と少ない。逆に言えば、その作品を強く評価してくれる選考委員が数人いればいいのだ。そのためには、自分だけが書きうる自分だけの世界を躊躇なく書き切る覚悟と力が求められるのだろう。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。