書評『防災アプリ特務機関NERV』――ホワイトハッカーたちの10年

ライター
本房 歩

気象庁からの粋なコメント

 3年前の「防災の日」である2019年9月1日、ITベンチャー企業であるゲルヒン株式会社が「特務機関NERV(ネルフ)防災アプリ」をリリースした。
 知っている人は知っていると思うが、「ゲルヒン」「特務機関NERV」の名称は、じつは人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する架空の組織名だ。
 1995年に放送されたこのアニメは、西暦2000年に起きた大災害後の世界を舞台に、14歳の少年が国連の非公式組織NERVの命を受け、人型兵器エヴァンゲリオンを操縦して謎の敵「使徒」と戦うというもの。「ゲルヒン」は作中でNERVの前身となっている国連直轄組織の名前である。
 アニメのなかでは、特務機関NERVは2010年にゲルヒンを発展させて設立されたことになっている。
 そのアニメの組織名を冠した民間企業が、やはりアニメの組織名を冠した防災アプリを開発したわけだが、リリースに際して気象庁は次のような異例のコメントを寄せた。

今回、気象庁も協力させていただき、ゲヒルン株式会社さまから、その使命を共にする頼もしいアプリを世に送り出せることになりました。
(中略)
災害をもたらす現象は、使徒と同じように、いつも違った形で突然やってきます。このアプリは、そんな緊急時に、みなさまの避難の判断をしっかりと支援してくれるアプリです。(ゲルヒン株式会社「プレスリリース」2019年9月1日

 気象庁があえてアニメの世界観を共有して「使命を共にする」「使徒」と表明したことに、人々はざわめいた。

出発は大学生の遊び心

 この防災アプリは現在までに200万回以上ダウンロードされているので、本稿を読んでいる人のなかにもスマホに実装している人は多いだろう。
 驚くのはその速さ。気象庁が緊急地震速報を発信して1秒以内にアプリに通知が届く。「特務機関NERV」のツイッターは、0・2秒後には情報がツイートされる。さらにアプリの起動もすさまじく速い。タップから起動まで0・153秒という。
 運営しているゲルヒンは気象庁から独自の専用回線を引き、データセンターは東京と大阪に3カ所ずつ置いている。電源供給と衛星通信の機能を持った車両もある。東京全体の電力がダウンしたり、気象庁との回線が切断されたりしても、大阪管区気象台とのシステムに切り替えて配信が継続できる体制だ。
 そして、基本的に無料で誰でも使える。色覚異常の当事者にも不便がないよう工夫されている。視覚障害者のための合成音声エンジンもある。外国人が使えるように英語版もある。
 民間が供給しているものにもかかわらず、文字どおり最強の災害情報インフラなのだ。
 だが、もともとは『エヴァンゲリオン』ファンだったひとりの大学生・石森大貴が、アニメの筋書きと同じように2010年に「特務機関NERV」名義のツイッターアカウントを遊び心でつくったことが出発点だった。
 本書は、この大学生の遊び心が最強インフラになるまでの秘められた道のりを、ノンフィクションライターの川口穣が綴ったものだ。
 アニメに登場する特務機関NERVは、「使徒」の来襲を警報する。石森は筑波大学を休学していた2010年に前述の〝なりきりアカウント〟を開設し、ゲヒルンという名のITセキュリティー会社を立ち上げていた。
 しかし、別に金儲けを考えていたわけではなく、役員報酬はゼロのまま趣味の延長でウェブサービスを開発していた。ツイッターの「特務機関NERV」も、最初は気象庁の発表する気象警報を数分遅れでつぶやくbotアカウントにすぎず、フォロワーはエヴァンゲリオンのファンが300人ほどいるだけだった。
 転機は2011年3月11日だった。

ヤシマ作戦を開始する

 じつは、石森の実家は宮城県石巻市にあった。石森は東京・秋葉原の自宅、長距離トラック運転手の父はたまたま神奈川県川崎市に来ていた。妹と母親がいる石巻に電話をすると一度だけつながり「大丈夫」という明るい声が返ってきた。
 その直後に、大津波が沿岸を襲っている映像を目にする。石森が「逃げてね」とメールを送ったが、返信はなかった。だが、石森は東京に留まって自分ができることをやろうと決める。
 発災直後から東京電力管内では電力がひっ迫していた。
 アニメの『エヴァンゲリオン』では敵を倒すために日本中を停電させてエヴァンゲリオンの陽子砲に電力を集中させる「ヤシマ作戦」がある。
 12日の午後、石森はしばらく放置していたツイッターアカウント「特務機関NERV」に投稿をする。

【ヤシマ作戦】午後6時から電力が著しく不足します。(中略)特にその時間帯には、極力電力の消費を避けて下さい。炊飯時間をずらすだけでも、救える命があります。(2011年3月12日のツイート

 これがきっかけとなって、人々が石森の発信する情報を拡散していく。
 名称もアイコンもアニメの著作権を侵害したままだったことを謝罪しようと石森が『エヴァンゲリオン』権利会社の代表・神村靖宏に電話をすると、神村は権利関係者の了解を取り付け「非公式」を前提に使用を認めてくれた。
 石巻の家族の無事がわかったのは、発災から3日経った14日だった。新築して5年の実家は津波にのまれ「全壊」判定だった。
 しかし、「逃げて」という言葉が大事な人に届かなかったという慙愧の思いが石森に強く残る。ここから今日の特務機関NERVへの挑戦がはじまった。

謎の特務機関の中の人たち

 本書では、石森の幼い頃からの生い立ちも描かれている。はじめてパソコンに触れたのは小学2年生だった1998年。6年生の時にはレンタルサーバーサービスをはじめる。
 じつは東日本大震災のあとも、災害情報を発信しつづける「特務機関NERV」の素性は謎のままだった。怪しむ声もあった。
 本書は、この時期に石森と彼の周囲に集まってきた仲間たちが、資力もないなか情報発信の精度を高めるために奮闘する姿を描き出している。
 100分の1秒、1000分の1秒という単位で、少しでも早く情報を発信できるように工夫と改良が重ねられていく。その地道な改良の集積が前述したスピードを実現した。
 石森の熱意に、優秀なホワイトハッカーたちが1人また1人と加わってきた。多くは、高校生や大学生のときに東日本大震災を経験した世代だ。
 一方、日本では毎年のように豪雨や大地震が続いた。災害が起きるたびに、石森らは不眠不休で対応に明け暮れた。
 まるでアニメの物語そのままに、ひたすら使命感に支えられて懸命に「災害」という巨大な敵から人々を守ろうとする若き「天才」たちの戦い。川口のペンは、彼らの葛藤や挫折も淡々と描き出していく。
 遊び心でつくった〝なりきりアカウント〟が、今や気象庁やエヴァの権利者からも後押しされ、国でさえ作れなかった最強の災害情報インフラになった。そんな奇跡を実現させた最大の力は、無欲でありながら徹底的に自分たちのやっていることの重要さを相手に伝える石森の説得力だ。
 危機においては情報の有無が人々の生死を分ける。しかし同時に、災害時では情報を待つ前に想像力を働かせ行動しなければならない。これは特務機関NERVを支える哲学になっている。
 誰かの役に立ちたい。1人でも多くの命を守りたい――。その情熱だけで突き進んできた若者たちの10年を描いた秀逸なノンフィクション。

『防災アプリ 特務機関NERV――最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(川口穣/平凡社)

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