書評『かざる日本』――「簡素」の対極にある日本の美

ライター
本房 歩

「美麗が床上浸水する日本」

 この世の枠組みに束の間の亀裂を生じさせ、聖なるものが不気味な貌を覗かせる――。「かざり」とはこのような機能を秘めたものだと著者の橋本麻里氏は記している。
 書店の棚に面陳列されていても、本書はまずその佇まいが強烈な存在感を放つ。表紙とカバーを飾るのは、深い墨色の地に静かに妖しく浮かびあがる花弁と葉の組み合わされた紋様。おそらく「金銀鍍宝相華文透彫華籠(きんぎんとほうそうげからくさもんすかしぼりけこ)」(個人蔵)の図版ではないかと思われる。12世紀につくられたもので、仏教の法会で散華の儀式をする際に、紙の花びらを入れておく籠だ。
 シックなカバーに巻かれた白い帯には、「世界を擾乱する〈かざり〉の術式」というコピー。コバヤシタケシ氏による装幀は、日常の安定に〝亀裂〟を生じさせる聖なるものが、この本の扉の内側に潜んでいることを見る者に予感させる。
 人は心をかき乱すような妖しさに不安を覚えながら、思わず手に取り、なかを開いて覗き見てしまう。
 そして「まえがき」は、こうはじまる。

 かざりじゃないのよ日本は。
 引き算に余白で祓い清め削ぎ落しデトックスし尽くした、そういうものこそが日本的な美だともてはやされることに、ずっと居心地の悪さを覚えていた。

 日本美術を主領域として、雑誌の特集からNHKの美術番組まで幅広く活躍する美術ライターである著者の名前には、馴染みのある人も多いだろう。というよりも永青文庫副館長、金沢工業大学客員教授を務めるほど手堅く幅広い知識をもちながら、独特の軽やかな筆致で読み手の半歩前をサッと駆けていくような著者の筆力のおかげで、日本美術ファンになった人が相当いるのではないかと思う。
 本書は、岩波書店の『図書』誌上で2019年11月号から21年4月号まで連載された「かざる日本」に、新たに2章を書き下ろし再構成したもの。
 文字どおり、日本の伝統文化のなかで「かざる」という世界に従事してきた人々に取材し、あるいはその空間に自ら身を置き、「足し算に掛け算で盛って装って注ぎ込んだ過剰な美麗が床上浸水しているような日本」を立体的に描き出す。
 多数のカラー図版とともに、文章も「版面にみっしりした凝縮感が出るよう、漢字多め、漢字も字画多めのものを意識的に」使い、「敢えての厨二病テイストな美文調の表現」(著者自身のツイート)で綴られている。
 徹頭徹尾、まずは書籍そのものが「かざり」に貫かれているのだ。

「豊かな簡素」と「貧しい簡素」

 取り上げられているテーマは「組紐」「座敷飾り」「供花神饌」「紅」「香木」といった王道から、「変化朝顔」「結髪」「ガラス」「和食」など意外なものまで19章。最後の20章は「かざる日本」と題して、「かざりの働き」とは何かを掘り下げている。
 そこでは幼少期の記憶をひも解きながら、30代半ばになるまで装飾に対しては潔癖症にも似た忌避感、罪悪感のようなものを抱いてきた自身の内側が吐露されている。
 ここでも左のページに「白地雲文緞子襞襟」「赤地沙綾縮緬襞襟」といったルビなしでは読めないような文字列が登場しつつ、右ページには自身の80年代の記憶として「松田聖子」「松本伊代」が並ぶ。
 シンプルな暮らしは近年の流行でもあるし、デフレーションが続くなか簡素なものは日常に溢れている。かつて著者が感じていたように、過剰に飾ることには常にどこか虚飾に通じるいかがわしさがある。
 けれども、ひとくちに「簡素」といっても、そこには「豊かな簡素」と「貧しい簡素」があることに著者は気づく。武者小路千家第15代家元後嗣である千宗屋氏を師として茶の湯に親しむようになったことが契機となったという。
 ここでいう「豊かな簡素」とは、単にそぎ落としただけのミニマムではない。周到に計画し、手塩にかけ、隅々まで意識を行き渡らせて高度に演出された「簡素」なのだ。千利休が大成させたわび茶は、まさにそのようなものだった。
 それは本来なら豪奢を自由にできる者が、あえて「やつし」として仕立てあげた世界。黄金と極彩色の絢爛に匹敵する強度をもつ、フィクションとしての簡素。
 そうした「豊かな簡素」の存在を茶の湯の師匠から学んだことで逆説的に、著者はこれまで忌避してきた装飾というものの意味に関心を抱くようになったという。

この世ならざる聖性を招き寄せる

 本書の魅力のひとつは、日本に集積されてきた「かざり」のそれぞれの成立まで丹念に記しつつ、その本質的な意味や役割を的確にとらえ、現代においてその仕事の先端にいる職人や美術家の挑戦を丹念に取材しているところにある。
 一例を挙げれば、「表装」の章には「再創造としての表装」という副題がつけられている。書画を掛け軸に仕立てるのが「表装」だ。
 美術館でそれらの作品を鑑賞する際、たいていの人は書画そのもの(本紙)には見入っても、その表装にはそれほど注意を払わないのではないか。あるいは図録ではたいてい表装は省かれ、本紙の部分だけがトリミングされて載る。
 しかしこの表装も、中国の宮廷で成立したあと日本に伝来し、とりわけ足利将軍家では「東山表具」と称される様式が完成していく。すると、時代が下って東山御物を所有することがステイタスになるにつれ、本紙の真贋やクオリティよりも表装の格式に鑑定者の目がくらまされるようになる。
 本来は本紙を荘厳するための「従」の存在であった表装が、じつは「主」となる事態が生まれたのだ。
 かくして表装はときに不正な取り引きの共犯者を演じつつ、コレクターたちの財力や人脈を示す文化として形づくられていく。
 本書では古美術コレクターでもある現代美術家・杉本博司の手になる表装作品展に触れ、傑出した美意識とネットワーク、創造性によって、表装が「再創造」として機能しているさまを描き出している。
「かざり」は単に視覚だけでなく、嗅覚、聴覚、触覚、味覚など五感を通して、温度や時間、空間の感じさせ方のなかで操作され感知される。「簡素」が人為によってなし得るものとすれば、「かざり」は人為を梃子(てこ)に、日常を律する道理や合理性を破って「この世ならざる聖性を招き寄せること」だと著者は語る。
 おそらくは著者でなければ他の誰も書けなかった味わい深く美しい一書である。

『かざる日本』(橋本麻里著/岩波書店)

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