連載エッセー「本の楽園」 第123回 原発ガーデン

作家
村上政彦

 1990年代には、クリエイティブな仕事をしている少なくない人たちが、エイズで亡くなった。政府広報によると、エイズ(後天性免疫不全症候群)とは、

「HIV(筆者注・ヒト免疫不全ウイルス)」というウイルスに感染して免疫力が低下し、決められた様々な疾患を発症した状態

をいう。
 かつては不治の、死の病だったが、いまは早期にウイルスを発見することができれば、さまざまな治療薬によって発症を抑えることができるし、普通の暮らしを営むこともできるようになった。
 いま世界を覆っている新型コロナウイルスも、そうなる日が来るだろう。人類はそうして、ウイルスや病とつきあってきた。
 僕の好きな映像作家にデレク・ジャーマンがいる。1942年にイギリスで生まれて、80年代以降、先鋭的な表現で映像作家としての地歩を築きつつあった。彼は、ゲイであることを公表していた。そして、86年にHIVに感染していることが分かり、94年にエイズで亡くなった。
 もう少し治療薬の開発が早ければ、あるいは彼のHIVの感染が遅ければ、21世紀の映像文化シーンは、もう少し違ったものになっていたかも知れない。そういう悔いを生じさせる才能だった。
 HIVに感染して亡くなるまでの晩年、彼はロンドンから20キロほど離れたダンジネスという土地のプロスペクトコテージで暮らしていた。ダンジネスは海に面していて原子力発電所がある。
 ダンジネスAとダンジネスBの2基――Aはすでに稼働を停止しているが、完全に廃炉となるのは2111年の予定だ。まだ、100年近くある。Bはトラブルで何度も停止させながら稼働を続けている。
 デレク・ジャーマンのコテージは、この原子力発電所の危険区域にあり、チェルノブイリの原発事故が起きた年に移住して来たという。彼はそこで何を始めたのか? 庭を造ったのである。それは極めてオリジナルな楽園だった。
 写真家の奥宮誠次は、1986年にロンドンで暮らすようになり、3年後に初めてダンジネスのデレク・ジャーマンを訪ねた。彼は気軽に撮影に応じてくれた。それから4年のうちに5回ほど撮影に行った。
 デレク・ジャーマンが亡くなってから、大規模な回顧展の企画が持ち上がり、写真を出店して欲しいという依頼があった。手持ちの、ネガ、ポジ、紙焼き、ほとんどすべての写真を渡した。
 それが回顧展の準備中に紛失した。奥宮の手元に残ったのは20枚ほどの写真だけだった。その貴重な写真のほとんどが、短い文章とともに、『原発ガーデン』に収められている。デレク・ジャーマンのポートレートがある。荒涼としたダンジネスの土地を歩く彼の姿がある。漁師たちが造ったのか、古い漁師小屋らしき建物がある。
 そして、彼の最後の作品となった庭がある。

彼のガーデニングは、
草花だけでなく、漂流してきた木や、
腐った鉄などを使っていた。

彼はこの地に、庭をつくった。
完成することのない、最後の作品。

「死に向かっている物」を集めて、
ここに楽園をつくろうとした。

 なぜ、庭を造り始めたのか? なぜ、それがダンジネスでなければならなかったのか? それはデレク・ジャーマンにしか分からない。ただ、一つ言えることは、彼が芸術家だったことであり、芸術家にとっては、しばしば生活そのものも作品になりうることだ。
 原子力発電所のあるダンジネスで庭を造り続けること――それがデレク・ジャーマンの作品であったことは、間違いない。

お勧めの本:
『原発ガーデン――映画監督デレク・ジャーマンの最晩年』(奥宮誠次著/百年書房・すーべにあ文庫)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。